卒業式の数日前に、軽音部の顧問の先生に呼び止められた。部室に住み着いた子猫を腕に抱き、「ダイヤモンドくん、ナイトレイブンカレッジに行くんだって?」とニコニコ笑う先生はなんだか嬉しそうだ。
「職員室でちょっと噂になってるよ、うちの学校からあそこに進学する子が出るの15年ぶりくらいだから……」
「そ、そうなんだ……」
そんなに嬉しそうにされても、自分で学校を選んだわけではないし、実力や学力で選ばれたという自覚もないから、なんだか妙な気分だ。
「そうそう、僕のミドルスクールの頃の同級生があそこで教師をやっているんだよ。……強面で猫好きの教師だ、すぐにわかると思う。僕から彼に連絡しておくから何かあったら頼りなさい」
「……あ、はい……、」
曖昧な返事をしていると、シャキッと返事をしろとでも言うように先生の腕の中の子猫が「にゃあ」と鳴く。あの雨の日にベランダから落ちた時と比べて随分と大きくなった猫は体格も良くなって少し重そうだ。今のこの重さで溺れかけていたとしても、オレに助けられるかどうかよくわからない。けれど、学校で勉強したらこの重さでも浮かび上がらせることができるようになるのかな、なんて頭の隅でぼんやり思った。
♦︎
卒業式の後学校に来なければならないなんてなんと面倒なんだろう。まあ確かに、式の時点では進学先の学校が決まっていない生徒も大勢いたから、諸々の手続きが必要なことはわかるが。
ようやく大量の書類の提出を終えて、欠伸を漏らしながら中庭を歩いていると、文化部棟からギターの音が降ってくる。そのまま帰ろうと思っていたが、なんだか、そのギターの音が偶然とは思えなくて、……柄ではないけれど『運命』のように思えて、導かれるように階段を登り、廊下を渡り、いつの間にか部室の前へたどり着いてしまっていた。
躊躇なくがらりと引き戸を開けると予想通り、・が一人で備品の古いアコースティックギターをチューニングしていた。
「ちゃん」
声をかけると下を向いていた彼女はパッと顔を上げて「え、ケイトくん?」と驚いたような顔をする。「やっほ」と手を振ると礼儀正しく「お疲れ様です」と頭を下げる。優しく声をかけられただろうか、怖がられていないだろうか、と少し不安になる。この前は結構ひどい態度をとってしまったし。オレが何も言えずにいると、「座ります?」と穏やかな表情を見せ、椅子を勧めてくるから、なんだかほっとする。多分オレはこの子に嫌われたくないんだ。
彼女のことが、たぶんずっと前から『好き』だった。……口に出して伝えたことはないけれど。『好き』なはずなのに、遠ざけて、突き放して、傷つけて、まるで臆病な獣みたいで笑えてしまう。けれど彼女は、そんな面倒な性質の俺の名を呼んでいつも通りに声をかけてくれる。
「ケイトくん、卒業式終わったのに、何か用事あったんですか?」
「そー、職員室に進学先に関する書類色々提出して、あと忘れ物あったから取りに来た」
「そ、ですか、……学校、どこ行くんですか?」
「……ナイトレイブンカレッジ」
「あ……全寮制の、」
寂しくなりますね、と彼女は眉を下げる。この子のこの言葉を、素直に捉えて良いのだろうか。……オレも寂しいって言っても良いのかな。
まだ、嫌われてはないと思う。むしろ、好かれていると思う、たぶん。一年一緒に過ごして分かった。彼女もオレと同じで臆病で、つい予防線を張るみたいに諦めてしまうんだ。そのくせ頑固で一度決めたら揺るがないから、寛容なのに強情で、諦めてるのに手放せない。そういうところが何だか少しだけオレに似てるから、感情移入してしまって、どこか惹かれてしまうんだろうか。
「……ちゃん、オレ思ってたんだけど、」
「はい、」
声をかけると調整の終わったギターでゆっくりとアルペジオを弾きながら彼女は返事をする。彼女が弦から指を離す時ピックを持っている方の手の小指が少し動く。その癖に気がついたのはいつだっただろうか、なんてぼんやりと思いながらその柔らかな音に耳を傾ける。一音ずつ低い音から高い音へ。なんだか、徐々に早くなっていくオレの心臓の音みたいだと密かに思った。
「ちゃんってオレのどこが好きなの?」
逃げたな、と我ながら思った。あの日彼女から振り絞るように告げられた『好き』に甘えている。そこは自分の気持ちを言うべきところだろ。全く潔くない。少し自己嫌悪してしまう。が、それでも彼女は「ふふふ、」と嬉しそうに、そして照れ臭そうに笑って、「そうですねえ、」と言葉を紡いでくれる。
「笑ってると可愛いけど真面目な顔をするとかっこいいところが好き、」
「うん、」
自分から聞いたくせに恥ずかしくなって目を逸らしてしまう。
「意外と手が大きいところが好き、」
「そっか、」
思わず自分の手と彼女の手を見比べる。確かに、この女の子の手はギターを弾く人間の手にしてはとても小さい。
「あと話を聞く時ちょっと屈んでくれるところとか、」
「……そうだっけ?」
とぼけるように言った後、自分が少し前屈みになっていることに気がつく。こういうことなのかな、とハッとすると彼女はくすくす笑って「そうなんですよ、」と頷く。
「……あとね、優しいところも、大好き」
「……うん、」
「ケイトくんが好きです」
「……うん、」
「でも私、付き合って欲しいとかじゃなくて、」
「……そうなの?」
「うん、好きって知って欲しかっただけ、」
「……そっか、……オレもちゃんが好きだよ、」
今度は逃げずに言えた。小さく息を吐く。アルペジオはもう聞こえない。ただ、オレ自身は格好をつけているくせに、心臓の音だけがやたら煩くて、彼女に聞こえてしまわないかだけ気になった。
♦︎
終わりに近づいているにしてはあまりにも穏やかな時間だった。いや、終わりに近づいているからこそ穏やかなのか。なんにせよ彼女がオレを呼ぶ声はいつも以上に柔らかくて優しい。
「……ねえ、ケイトくん、」
「ん?」
「また会えますか?」
「……わかんないなあ、」
付き合いたいとかそういうわけじゃないから、多分オレたちはデートしたりキスしたりはしないし、オレがここを離れたらもう会うことはない。
「ふふ、そうですよね、」
そんなの嫌だ、とか言われるかなと思ったけれど、強情なくせに諦めが早い彼女は縋り付くような言葉を口にしたりはしない。その代わり、とでも言うように、恐る恐る手を伸ばしてくるから、そっと指を絡めた。
これくらいなら、きっと許されるはずだ。誰に許されるかなんて、わからないけれど。
繋いだ手の暖かさがどちらの体温だか分からなくなった頃、また彼女はオレの名を呼ぶ。
「ねえ、ケイトくん、約束じゃなくて願い事にしましょう」
「願い事?」
「そう。……また会えますようにって」
「……はは、いいねそれ、じゃあオレも願い事しておこ」
こんな願い事したの、生まれて初めてだよ。
もし、もしも、次に会えた時は、その時は彼女に嘘はつかずにいよう。臆病なオレが勇気を出せるよう、願い事と一緒に密かに誓いを立てた。
繋いだ手を離して、別れを告げた。いつの間にか沈みかけていた太陽は空をオレンジ色に燃やしている。なんだかツンと鼻の奥が熱くなって、誤魔化すように息を吐いた。
オレが全寮制の学校ナイトレイブンカレッジに入学したのはそれから数週間後のことだ。