君は瞬くあかつきの星 #4

あの日は「小狐丸ちゃん、ありがとう、ごめんなさい、」と繰り返しながらぽろぽろ涙を流す彼女を支えながら、満身創痍で本丸の表の庭へ逃げ延びた。
幸いにも、本丸の刀剣達に折れた者は一振りも居なかった。が、当然敵味方問わず、多くの血が流れた。敵は全て屠ることができたようだが、傷が癒えるまでかなりの時間がかかる刀剣男士も多く居るようだ。……小狐丸自身が負った傷も決して小さな者ではない。だが、それが戦、それが命、それがこの世の決まりごと。戦で使われる刀剣男士を束ねる審神者になるには、そういうことを全て飲み込まなければならないのだ。彼女も覚悟の上であろう。
とはいえ、普段寝起きし食事をする穏やかな場所が突如戦場に変わり炎に包まれるのは、鍛え上げた刀剣男士や名だたる武将でも恐ろしいのだ。幼い彼女は、どれほど恐ろしかったことだろうか。小狐丸には想像がつかない。
が、不謹慎にも、この、恐怖が限界まで膨れ上がった末にゆがんだ彼女の表情を、溢れ出した雫を、美しいと思ってしまった。 ……勿論、彼女に辛い思いをさせたいわけではない。ただ、これまで見たことのなかった彼女の表情が、小狐丸の心を大きく揺さぶったことは確かだ。

彼女と共に手入れ部屋へ赴くのは初めてだった。これまでは、大した傷を負ったことがなかったから、一人手入れ部屋へ入ってもそこにある道具やそれに宿る精霊達の力、さらに部屋自体に浸透した霊力で傷を治すことができていた。
だが、こうも大きな傷を負ってはそういうわけにもいかない。彼女の力が無くては、傷は治せない。
彼女が傷口に手を添えると、じんわりとした暖かさがそこから身体全体に広がった。やさしいぬくもりは小狐丸を癒やすように、ふわふわと包み込む。これが、彼女の力なのだろうか。この小さな手がこれほどの力を持つとは、これまで全く知らなかった。
ぱちぱちと火の爆ぜるような音がする、安息香の香りが漂ってくる、そして、微かに、いや、確かに己を呼ぶ声が聞こえる。……あのときと、鍛刀された時と同じだ。

「早く、傷が良くなりますように、……私の、私だけの、刀の神様」

彼女のささやき声も、鍛刀されるときに聞いたあの声と同じ。

……やはりあなたが、あなたこそが、私のぬしさま。

手入れ部屋から外に出てすぐの縁側では青い着物を着た太刀がのんびりと茶を啜っていた。……三日月宗近だ。多くの仲間が傷ついている中ではあるがこのようにいつもの習慣を変えないというのが彼の日常の取り戻し方なのかもしれない。

「調子はどうかな、ご両人」
「三日月おじいちゃん」

主が名を呼ぶと、『爺』を名乗る太刀は、本物の孫を見るような目で穏やかに微笑む。

「ずいぶんと、大きな怪我を負っていたようだが」
「はい、大丈夫です。私の方の負担が少なかったものですから……小狐丸ちゃんの髪の毛は未だもう少し時間がかかるみたいですが傷の方はすっかり……、あの、小狐丸さんの様子はどうですか?」
「大丈夫さ、おぬしが応急処置をしてくれていたおかげで、大事には至らなかったようだ」

三日月の言葉に、主はほっと安堵した表情を見せる。その顔を見て三日月も微笑みを返し「それに、」と続ける。

「小狐丸、おぬしが相当な数の敵を倒したそうではないか、大事にならずにすんだのはそのおかげでもある、と小狐丸殿が言っていたぞ」
「本当ですか?」

主の声が普段より少し高くなる。小狐丸を褒められたことが余程嬉しかったのだろうか、少女の表情はみるみるうちに喜びの色に染まる。己のことではなく、小狐丸のことを褒められたときのほうが嬉しそうにするとは、不思議な娘だ。
だが、嗚呼、その表情は、恐怖にゆがんで震える顔よりも、重荷に耐えきれず涙を零横顔よりも、ずっとずっと美しい。そのことに気づくことができた、そのことを知ることができた、それこそが此度の戦の戦果と言えるのではないだろうか。
そのような小狐丸の思いに気がついたのか、月の名を持つ太刀は狐の目を見てすう、とその瞳を細めた。

「この子を、大事にな、小狐丸」
「無論じゃ」

花壇に蒔いた種が花を咲かすまではこの小さな将に付き合ってやりたいと、ほんの少しだけ思っていた。が、未だ若い太刀は新たに一つ誓いを立てる。撒いた種が花を咲かし、種を落とし、また再び花を咲かしても、この小さな主の側に居よう。誉れを幾つも取ることができるように励もう。彼女の喜びの色を何度でもこの目で見るために。

小狐丸が目を覚ますと、夜闇の中、いつも通りの天井が視界に広がった。本丸を焼いた炎は、煙の割に燃え広がらず、普段の生活で使う棟や刀剣男士の私室がある棟は焼け落ちることも傷付くことなく以前のまま本丸の敷地内に残っている。……が、小狐丸にとって以前とは違うことが一つだけ。隣ですうすうと寝息を立てる幼い主は、燃えた私室の修繕が終わるまではここで眠ることにしたらしい。「嫁入り前の娘が刀剣男士とはいえ男の部屋で眠るなど……」と石切丸はぶつぶつ言っていたが、彼女としては主として小狐丸ともっと親しくなりたいという一心であろうし、小狐丸としても、先の戦で斬り落とされた髪の毛が完全に元に戻ってはいないため、火事と襲撃の影響で空いている手入れ部屋がなかなか長時間確保できない今、側で彼女の霊力を感じることができ、少しずつとはいえ回復に向かうことができるのは喜ばしいことだ。
戻りに時間がかかるように思えたバッサリ切れた髪の毛は、彼女の霊力のおかげで思ったよりもずっと早く元の長さに戻りつつある。「大丈夫ですよ、ぬしさま。また髪は伸びます」と何度言っても、小狐丸の髪の毛を見る度に、悲しそうな申し訳なさそうな顔をしていた主だが、徐々に元に戻るにつれてほっとした顔を見せるようになってきた。彼女の辛そうな顔は見たくない、彼女の穏やかな顔を見ていたいというような思いは、顕現されてすぐの頃は抱くことがなかった、新鮮な気持ちだ。

ぎゅう、と胸が締め付けられるような、それでいて温かく愛おしい気持ちを抱えて、小狐丸は再び目を閉じる。
朝が来るまで未だ時間がある。それまでは、彼女の隣でもう少しだけ、眠気に身を任すのも悪くはないだろう。

ぬしさま
 嗚呼ぬしさま
 私のぬしさま
 お守りします
 お側にいます
 大事な たった一人の
 私だけのぬしさま

小狐丸を含めた本丸の全ての刀剣男士達、そして小狐丸の主であるが、この本丸の将……親方様に呼び出されたのは、襲撃から数日が過ぎた日のことだった。

「今日はみんなに話があるんだ」

将は燃えずに残った広間に集められた刀剣男士達を見回して、まるで自分の家族を見るようにやさしげに微笑む。

「私の身体について、そして此度の襲撃について、最後にこの本丸の今後について」

彼の言葉に心がざわめく。何かこれまでとはこの本丸が一変してしまうようなことを告げられてしまうような気がして、前を向いて彼の目を見ては居られなくなる。……きっと、集められた刀剣男士達は皆同じような気持ちを抱えているのだろう。が、誰も将の話を遮ることなく黙ってその場に控えている。そのことを確認して、審神者は「さて」と話を始める。

「まず私の身体について、知っての通り、先の襲撃で私は足をやられてね、おそらく、もう一人で歩くことはできないだろう」

そういうことだったのか、手入れ部屋でも本丸の何処でも彼の姿が見えないから少し不思議に思っていたところだ。も、すでにそれは承知のことであったのだろう。特別おどろいたような顔をすることはなく、ただ膝の上でぎゅっと拳を握りしめている。

「なに、皆が手伝ってくれるから今のところ特に不自由なく生活できているよ、ありがとう。……だが、察している者も居るだろうが、生活はなんとかなっても審神者の任務はそうはいかない。霊力を扱うときは、自分でも思っていた以上に足に力が入っていたんだねえ。今はこれまでの半分の力も出すことができない」

なるほど、であれば傷ついた刀剣男士達の手入れに時間がかかっていることにも納得がいく。未だにこの広間には三角巾で腕をつっている者や身体に包帯を巻き付けたままの者が大勢居た。全て此度の襲撃で負った傷だろう。審神者は「すまないね」と眉を下げる。そんな顔をしなくても良いのに、という風に傷ついた男士達は黙って首を横に振る。

「加えて、私の胸の腫瘍の話もしておこうか。……三年ほど前かな、審神者の健康診断に赴いたときに心臓に腫瘍が見つかってね、」

途端に、場の空気がピリと引き締まる。戦場で敵を前にしたときの空気とはまた違う、これから主がくちにすることが、まさに本丸の今後を左右するのだと察したのだろう、これまで以上に皆、姿勢を正し将の話に耳を傾ける。

「良性のものだろう、たいしたことは無いだろうと高をくくってしばらくそのままにしておいたんだ。いやあ、こういうものを放置しておくのは良くないね。どうやら悪性のもので、きちんと治療をしなければ数年以内に命を落とすほどのものらしい」
「そんな!そんな大切なことどうして……」

声を上げたのは、刀剣男士ではなく、彼の娘、であった。男士達は消してそれをとがめることはない、誰も皆同じ気持ちだからだ、そんなに大切なことどうしてこれまで黙っていたのだろう……?それでも、将は冷静に彼女を落ち着けるように声をかける。

「座りなさい、。……此度の襲撃は、この私の弱った身体のせいで起こったといっても過言ではない。病に冒された身体では、いくら結界を張っていてもどこか欠陥が出る。そこを叩かれた。……私の怠慢で皆には無理をさせてしまった、本当に申し訳ないと思っている」

本丸の将は頭を下げる。誰も何も言わなかった。将に頭を下げさせたことが悔しかった、もっと己に力があればと皆が思ったに違いない。それでも、いくら悔やんでも仕方がない。我らは刀剣男士、過去を変えることは決してできないのだ。

「そして、今後の本丸の話だ。先程も話したとおり、私の身体はとてもこれから先審神者を続けられる状態ではなくなってしまった……病とはいえ、数年は猶予があったから、そこにいるがきちんと一人で審神者の仕事をこなすことができるまでは引退せずにいようと思っていたんだけどねえ。この足ではそうもいかない。……そこで、だ。私はこの本丸を完全に、我が娘、に譲ろうと思っている」

俄に、広間はざわついた。隣に居たも、目を見開き驚きと不安の入り交じった表情をしている。無理もないだろう、ついこの間まで見習いであった幼子を一城の主とするなど、正気の沙汰とは思えない。……が、将が手を上げると、すう、と広間は再び静かになった。静寂を取り戻した空間で、審神者は再び「さて」と話を続ける。

「とはいえ、彼女はまだ未熟な審神者だ。これだけの数の刀剣男士が居れば、形を保つだけで精一杯で、本丸の結界にまで手は回らないだろう。……そうなっては、此度の襲撃の二の舞だ」
「主よ、それはつまり……」

問いかけたのは三日月宗近だった。将は微笑んで「おそらく、想像の通りだよ」と頷く。

「賢い君たちならもう分かっているだろう、……この本丸には、彼女自身の刀である小狐丸と数振りの刀剣男士を、私の手伝いとして二振りの刀剣男士を残して、残りの者はよその本丸へ譲渡・もしくは刀解することを考えている」

刀解か、譲渡か……。どちらも望まぬ者も居るだろう、折れた方がましだという者も居るはずだ。本丸に残ることが決まっている小狐丸であるが、己であればどうするか、考えてしまわずには居られない。
しばらく誰も何も言わなかった。そんな中、最初に「ぬしさま」と声を上げたのは、もう一振りの小狐丸、霊狐であった。

「して、本丸に残る男士と、ぬしさまの元に残る刀剣男士とは……」
「……ここで言ってもいいのかい?」

将の問いかけに、刀剣男士達は頷く。
あとで個別に話をしようと思っていたんだけどね、と審神者は困ったように笑う。が、姿勢を正し、「それでは」と手元にあった書類を開いた。

「まずは、本丸に残る六振りから。……彼女の刀である小狐丸と連携が取りやすいであろう者を選ばせてもらったよ」

三日月宗近
石切丸
岩融
今剣
太郎太刀
次郎太刀

名前を呼ばれた刀剣男士は姿勢を正す。小狐丸以外の三条の刀と、練度の高い敵であっても力で押し切ることができる大太刀の二振り、順当であろう。

「そして私の元で手伝いをしてもらうのは、加州清光と薬研藤四郎……。君たちはこれまでとは全く違う任をこなしてもらうことになるだろうが……、付き合いの長い二振りだからこそ、頼める事柄ばかりになるだろう、宜しく頼む」

将の言葉に二振りは頷く。ほかの刀剣男士達も同じ考えなのであろう、誰一人苦言を呈することはなく、覚悟を決めたような表情を見せる。素晴らしき将であると胸を張って言える審神者に使える刀剣男士として、戦場に生きる武士として、幾年月も生き続けた付喪神として、精一杯の誇りを持った表情だ。

「残りの者は、譲渡か刀解か、自分たちで選んでほしい。君達の望みに従おう。……すぐに決めてくれ、とは言いたくなかったんだが、こういう手続きは早いほうがいいとこんのすけが言うものでね、君たちには申し訳ないが、明後日までに譲渡か刀解かどちらかの道を選んでもらいたい」

将の話はそれで終わった。が、は放心した様子でそこから立ち上がることができずに居るようであった。小狐丸は今はただ、主の側に居ることしかできない。そんな己の無力さを、少しだけ恨んだ。

縁側に座り、紅い木でできた三味線を丁寧に磨く霊狐を見つけて、側へ寄る。「邪魔をするぞ」と声をかけ、返事を待たずに腰掛ける。あのときとは、立場が逆だ。

「嗚呼、若い私。……先日は、どうもありがとうございました」
「それはこちらの台詞じゃ、……貴様がおらねば折れていたに違いない、……礼を言う」

頭を下げると、何がおかしいのか霊狐はクスクスと笑う。……その様子はあまりにもいつも通りで、あと数刻もすれば本丸から姿を消してしまう刀剣とはとても思えなかった。
予想はしていたが、霊狐からは何も言わなかった。小狐丸の方は、未だ聞いておきたいことがたくさんあるのに。これからのことも、戦のことも、主とのことも。彼の方が何か言うまで黙っていようとも思ったが、しびれを切らして口を開く。

「……貴様はどうするんじゃ、譲渡か、刀解か、今日には決めねばならんのじゃろう」
「……ふふ、私の心はもう決まっていますよ、……ぬしさまの手で、刀解していただきます」

そう言って霊狐は愛おしげに三味線に張られた皮を撫でた。「ぬしさまの手で」一瞬であるとはいえ主への執着を見せた霊狐のことだ、そのように言うであろうことも少し予想をしていた。が、本当にそれで良いのだろうか。

「……貴様は、流れていく種のことを考えたことはないのか、」

以前に己の主、が、花壇の花を見ながら言っていた言葉を思い返す。「私たちの命も水で流れず此処に残った種たちの命も、流されていった沢山の命を代償として形作られたかけがえのないもの。大事にしなくちゃ」そう、多くの命を代償として私たちの命はここにある。きっと、彼女が言っているのは味方の命のことだけではない、敵の命のことも指しているのだろう。残酷なまでに優しい娘だ、屠った敵の分だけ生きてほしいと、生きていたいと望むのだ。きっと彼女は、霊狐や本丸に居るほかの刀達が刀解されることは望まない。

「その通りですね、種は流れてしまうもの、」
「だから、流れず残った者たちは、自身の命を大事にしろと……」
「ええ、その通りです」
「……ならば何故、貴様は……」

小狐丸の言葉を遮るように、霊狐は指を一本立てて、唇の前にかざす。そうして、まるで内緒話をするかのように「良いですか、若い私」と言葉を紡ぐ。

「良いですか、若い私。流れず残ったのは何も刀剣男士の命だけではありません、ぬしさまの命も、流れずにここにあり続けている」

親方様は今はこれまでの半分の力も出すことができないのだと口にした、そして未熟な審神者であるは数振りの刀剣男士の人の形を保つので精一杯であるのだと。……今、力の半分も出すことができない親方様が、これだけの数の刀剣男士の人の形を保ち続けるのには、相当な労力が必要なのだろう。それは命を削るに等しい行為。だからこそ、このような短期間で刀解か譲渡かを選ぶようこんのすけに勧められたのだ。加えて、此度は一振りも折れずに襲撃を乗り切ることができた者の、霊力の欠如している状態の審神者を将とする本丸を敵に襲撃された時どうなるかは分からない。そうなる前に、この本丸の刀剣男士達は……。

「……だから、」
「そう、だから私は、この選択をしました。……譲渡をするとはいえ、譲渡先が決まるまではぬしさまの霊力を食い潰して生きながらえることとなるでしょう。せっかく流れず残ったぬしさまの命、私を生かすことを代償に削れて行くのであれば、いっそ私はぬしさまの手で溶かされてしまいたいのです」

霊狐は「植物は芽が出た後も間引きされるものなのですよ」と悲しげに、穏やかに、微笑む。

「……間引いても鉢を移せば大きく育つ可能性がある、が、」
「鉢を移すのは、三日月殿達だけで良いでしょう。新たな鉢で様が育て上げてくれるはずです。……私は、このまま、溶けて土に還ります」

しばらく、静かなときが流れた。霊狐は手にした三味線の糸巻きをくるくると回す。同じ小狐丸の名を持つ者同士、何も言わなくても気持ちが通じるような、何か話していても全く気持ちが分からぬような、複雑な相手だ。……だが、それはほかの刀剣男士や人である主と対するときも同じことなのであろう。未だ人として生きて日の浅い小狐丸や刀剣男士達にできることは、それでも通じ合うことができるよう、お互いに歩み寄るのみ。
そのように思いを巡らせていると、不意に霊狐が「そういえば」と口を開き、こちらを向いた。

「そういえば、若い私、長唄の小鍛治は覚えましたか?」
「……唐突じゃな、何故今そのようなことを……?」

「ふふ、今だからこそ、ですよ、若い私。気がつきましたか?能でも、長唄でも、歌舞伎でも、私たちは産まれたらそれで終わりなのです。盤の上で歌われるのは私たちがこの世に成されるまでの物語。そこから先の物語は、誰も知らないのです」
「……誰も、知らない」

確かに、本丸に居るほかの刀剣男士達の持つ物語は、刀としてどのように扱われたか・どのように主と共に在ったかという物語ばかりだ。打たれるまでの逸話がこのように語り継がれている『小狐丸』のような刀はとても珍しい。

「そう、だからこそ、これから貴方の物語を、貴方が作っていくのですよ。……幸い、貴方のぬしさまも、貴方の周りの刀剣男士も、魅力的な方々じゃ。側に居るだけで、いくつもの物語を紡ぐことができるでしょう。その物語は、私はもちろんほかの『小狐丸』も持ち得ない、貴方だけの物語なのですよ」
「私だけの……」

主の、ここに居る刀剣男士達の顔が、頭に浮かぶ。私の、私だけのぬしさまと紡ぐ、私だけの物語。どのような色に染まるのだろう、どのような花を咲かせるのだろう、それを知り得るのは、これから先の歴史に在る己のみ。

「それを、ずっと伝えたかった。若い私、」
「……なんじゃ、」
「……この本丸にも、紡いできた物語があります」

そう言って、霊狐は目を細める。皆までいわずともわかる。この本丸の物語を絶やさぬように紡ぎ続けると共に、新たなる自分自身の物語を築いていく、それが小狐丸のこれからの役割。

「小狐丸、」
「はい、」
「この本丸を、頼みましたよ」
「……勿論です……、小狐丸」

小狐丸の言葉に、小狐丸は頷く。誓いを立てるように、思いを伝えるように。

その夜、本丸から、一振りの小狐丸の気配が消えた。紅い木でできた三味線を一棹残して。

時は光のように過ぎ、小狐丸の主、が本丸の主として就任する日と相成った。いつもよりも上等な着物に身を包んだ彼女は、すっと背筋を伸ばして前を向き、目の前に居るすっかり少なくなった刀剣男士達に向かって語る。

「刀剣男士のみなさんは、刀の神様で私とは全く違う存在なんだって思ってた。怒ったり泣いたりしなくて、いつも綺麗に笑ってるから。でも、ちゃんと人間の心も持っているんですね。私と同じように、怒って、泣いて、苦しくなって、時々とびきり嬉しくなって……、わたし前よりもっともっと皆さんのことが、小狐丸ちゃんのことが好きになりました」

彼女の声は、美しい歌のように、刀剣男士達の耳に届く。彼女の言葉に、広間に集まった刀剣男士達は穏やかに笑う。

「これからも、もっともっと、みなさんのこと、好きになりたいんです。……まだまだ未熟な私ですが、どうか宜しくお願いしますね、」

そう言って主が頭を下げると、三日月宗近は立ち上がり、孫に話しかけるように目を細める。
「そうだな『主』よ、俺たちは刀の付喪神。付喪神は人の心に触れて意思を持つ・形を持つ。神に近い者も、物に近いものも、妖や鬼や獣の性を持つものもいる。けれど、誰もが多かれ少なかれ人の心を宿しているものなのさ」
「その通り、だから私たちを大事にして。もっと好きになって。『主』も、大事にされて、好きになってもらえたら、嬉しいだろう?」

石切丸の言葉に、主は頷く。
この本丸は、良い本丸になりそうだ。

さあこれから、蒔いた種が花を咲かすのは、いつのことになるのだろう。
どうやらあの時、彼女と共に花壇に植えた種は、育てば巨木となる樹の種であったらしい。高く伸びて、枝が生い茂り、花が開くのは、十年後、二十年後、いやもっとずっと先になるのかもしれない。
けれど、それでもかまわない。それまで、小狐丸も、彼女を大事にして、もっと好きになれたら、これほど嬉しいことはない。
紅い木でできた三味線をペンと鳴らす。この物語がいつか、溶けて消えた一振りの太刀や、娘に己のあとを託した一人の将に歌となって届く日を夢見て。

「大きいけれど、小狐丸。いえ、冗談ではなく、まして偽物でもありません。私が小!大きいけれど!……この大きい身体で、ぬしさまをお守りしてまいります。この本丸で、末長く、ぬしさまにお仕えしたいのです。どうか小狐丸をお側に置いてくださいませ、」