君は瞬くあかつきの星 #3

小さな少女が水をたっぷりと入れた如雨露を傾けると、柔らかな霧のような雫が庭の植物達に降り注いだ。「小狐丸ちゃんもやってみますか?」と問われ首を横に振る。最初に顕現された日にそれを受け取り、中の水を勢いよくぶちまけてしまったこと、その時の彼女の驚きと落ち込みが入り混じった顔は、忘れようにも忘れられない。あとから聞けば、あれでいくつか植えていた種が流れてしまったらしい。
未だ彼女のことを己の主として心の底から認めることができているわけではないが、あの時のような悲しい顔をさせたいというわけではない。……と、小狐丸は思っているのだが、反面幼い彼女は気丈なもので、「大丈夫です」とすぐに元の柔らかな表情に戻っていた。
「……本当によろしいのですかぬしさま、あの時の種は」
「雨が降ればいくつか流れてしまうものですし、芽が出てしばらくしたら間引きをしてしまうものから、大丈夫ですよ」
「確かに……そうかもしれませぬが……」
「私の手に触れた種は、私の近くで芽吹いた命は、間引かず全部育ててやりたいと、そう思うことが無いわけではありません、でも……」
「でも……?」
「でも!それが命、それがこの世の決まりごと。……残った方をより大事にしていけば良いんです。私たちの命も水で流れず此処に残った種たちの命も、流されていった沢山の命を代償として形作られたかけがえのないもの。大事にしなくちゃ」
それは戦の将となるものとして育てられたからこその言葉なのだろう。が、その気丈な態度の中、その瞳の奥は悲しげに揺れていたことに小狐丸は気づいていた。……戦で誰かを切り捨て勝ちを得なければならないような戦況になった時も、彼女はこのような表情をするのだろうか。そのような小狐丸の思いに気がついたのか、彼女は内緒話をするように声を潜めて太刀の名を呼んだ。
「……ねえ小狐丸ちゃん、本当はね、植物は優しくて強いんです。例え流れても流された先で芽を出す可能性がある、間引いても鉢を移せば大きく育つ可能性がある。……全てうまくはいかないかもしれませんが、私はそういう可能性もちょっとだけ信じたいんです」
「……ええ、ええ、私も、信じとうございます、ぬしさまと共に」
自分でもこのような言葉が口をついて出るとは思わなかった。戸惑いと驚きが入り混じったおかしな表情をしてしまっていることが鏡を見なくてもわかる。対する彼女は、小狐丸の言葉に少し驚いたような顔をした後、嬉しそうに微笑んだ。
花を育て、愛でる、このようなままごとは戦には全く必要のないことだと分かってはいる。だが、彼女のこの優しげな表情をもう少し見ていたくて、小狐丸も彼女に倣い、髪の毛を踏みつけぬよう気をつけながら、花壇の縁にしゃがみ込む。今だけは、この小さな将に付き合ってやりたいと、ほんの少しだけ思ったのだ。……今だけは、ここに蒔いた種が花を咲かすまでは。
「この前は小狐丸ちゃんに三味線を教えてもらったから、今度は私が教えてあげますね、植物のこと、たくさん」
そう言って一つ一つの花壇を指し示し、丁寧に伝えるこの将は、誰よりも優しい娘だ。

小狐丸は教えられた通り、彼女の父の刀剣たちと共に出陣し、練度を上げてきてきた。特別に戦果を挙げているわけではないが、少しずつ強くなっていっている気がする。

その日はやけに空がからりと晴れていて、雲一つなく、空の上のそのまた上まで見えてしまいそうなほどであった。本丸に戻った小狐丸は、毛並みと肩に落ちた粉塵を払う。こうも乾燥していたら、例え怪我がなくとも舞い上がる砂埃で汚れてしまう。これも周りの刀達が教えてくれたことだ。手入れ部屋に行くほどのことではないから、彼女の「何かお手伝いすることはありますか?」という申し出は断ったがこれは厄介だ。着物についた泥を払い、一人丁寧に毛並みを整えていると、ふと本丸の空気がいつもとは違うことに気づく。敷地内に居れば常に否が応でも感じられる彼女の父の霊力がどこか薄まっているように感じるのだ。
そんな中、不意に、パリンッ と何かが割れる音がする。
空の上の太陽が少しずつ陰っていく。
そういえば、敵の居る時代はいつも天気が悪い、と出陣の度密かに思っていたのだ。
一気に冷え込む室内。
自室の窓から見ていたはずなのに、空の割れ目からずるりと這い出した異形が、本丸の屋根に降り立つのがはっきりと見えた。

「……ぬしさま!」

櫛を放り出して駆け出した。あのちいさな主はいまどこへ……?
先程顔を合わせたから、本丸内には居るはずだ。
彼女の自室か、厨か、畑か……、急ぎ様子を見に行くがどこにも彼女の姿は無い。

「……中庭の花壇か……!?」

どこからか煙も立ち始める。火を放たれたのだろうか、木の焼ける強烈な臭いでうまく鼻が効かない。
と、本丸の駆けていると、二つの大きさの違う影に遭遇する。二つの影は周囲の異形を切り捨てながらこちらに近づいてくる。

「ガハハハ!さすがに、数が多いなあ!俺でも狩りつくすのに数刻かかるかもしれん!」
「むちゃをしてはだめです、いわとおし!ひのてがちかくに!……あるじさまたちをおまもりしなくちゃ、」
「応、承知しておる!……む、あれは」
さまのこぎつねまるですね!」
「岩融!今剣!」

大きい影岩融と、小さい影今剣は「ここから先は敵が増えるぞ!」「たおしても、たおしても、へらないんです!」と小狐丸に注意を促しつつも、敵を叩く。

さまはどちらへ?」
「今探しておるところじゃ!」
「そうか、ならばそちらはおぬしに任せても良いな。我らは我らの主を助けに行く」

岩融が薙ぎ払った敵の急所を、今剣が突き刺す。このように、侵入してきた異形達を片付けてきたのだろう。己も同じように、敵と渡り合うことはできるだろうか、不安で仕方がないがやるしかない。

「こぎつねまる、きをつけて!そちらのほうは、かざしもですから、ひはなくてもけむりが……!」
「そちらこそ、親方様の部屋は火種に近いようじゃ、重々に……」
「ぼくたちをだれだとおもってるんですか!」
「その通り、俺は武蔵坊弁慶と共に九九九の刀を狩った薙刀よ!」
「ぼくはよしつねこうのまもりがたなでした!……『あるじ』をまもるのには、なれているんですよ」
「では行くぞ今剣!」
「はい!」

親方様の居室に向かう二振りを見送り、小狐丸も彼女の姿を再び探し始める。

「……主を守ることには慣れている、か、」

まだ、彼女のことを主として認めることできたとは言い切れない。が、今剣のように言い切ることができるくらい、彼女のそばに居たいと、そう思ったのは刀剣男士の性なのであろうか。

岩融の今剣のいっていたとおり、中庭に近づけば近づくほど煙が濃くなって目を開けているのも辛くなってきた。そんな中敵と対峙するから、油断をすれば押し切られてしまいそうだ。だが、彼女の無事を確認するまで、足を止めるわけにはいかない、負けるわけにはいかない。中庭へ繋がる勝手口の引き戸をがらりと開けると、燻る煙がますます広がって、思わずむせかえりそうになる。
声が聞こえる。聞き覚えのある幼い少女の声と見覚えのある小さな影、そしてもう一人は……、

「霊狐……?」

彼女と共に居る大柄な太刀は、黄金色の着物が紅く染まっている。おそらく、敵が侵入した際に、をかばって傷を負ったのだろう。彼が一人である程度の敵を倒したような形跡はあるが、広い中庭だ、未だに倒しきれていない異形が数多くうごめいて至る所に潜んでいるであろうことは、気配だけでも分かる。戦の将となりうる審神者と練度が高い太刀であるとはいえ、幼い子供と手負いの男士だ。一刻も早く、二人を敵の居ないところへ避難させなければ。

「小狐丸さん早く!」
さまお一人で、お逃げくだされ」
「でも!小狐丸さんが!」
「私のことは良いから!どうか、早く!」
「嫌!嫌です!私は、私は……ッ」
「……ぬしさま!!!!」
「小狐丸ちゃん!」

小狐丸が主に声をかけると同時に、彼女と押し問答していた霊狐が膝から崩れ落ちた。傷を負った狐は、血の滲む腹を押さえながら微かに笑う。

「ああ、若い私、よく来てくれましたね」
「おぬしその傷……」
「先程敵とやりあった時に少々……」

霊狐を支え、立ち上がろうとすると、その手を払われる、その太刀の目はただ一点・己の主の居る方向を見据えていた。

「問題ありませんよ、まだ動けます」
「しかし……、」
「私が良いといっているんですよ、若い私。……私はこれから、ぬしさまの元へ向かいます、ですから若い私、貴方は様を連れて」
「嫌だって言ってるじゃないですか!」
「ぬしさま……、」
さま、」

幼子は士の手を握る。震えながら、涙をこぼしながら、瞳に強い意志を秘めながら。……己の主がこのような顔をするのだということを、小狐丸は初めて知った。うつむいた彼女は、その小さな拳に力を込めて、言葉を紡ぐ。

「わかっているんです、戦は命のやり取り、常に死と隣り合わせ、知ってるんです、戦えば必ず誰かが傷つくということ、でも!傷つかないで欲しいんです!生きてきて欲しいんです!分かってるけど、分かりたくない!」
「ぬしさま……」
「私はわがままだから、みんなのことを守りたいんです、父の刀の方々も……勿論小狐丸ちゃんのことも、」

この娘はきっと、誰一人傷つけることなく戦を終わらせたいのだろう。……そして、そのようなことは不可能なことも分かっているのだろう。だから小さな身体で苦しんでいるのだろう、だから涙が止まらないのだろう。彼女につられてしまったのだろうか、それとも煙が目にしみる性だろうか、小狐丸の目からも、一滴の粒がほろりと落ちる。小狐丸が何か言う前に、少女は再びゆっくりと口を開いて、霊狐の瞳をまっすぐに見て「ですが、」と続けた。

「ですが、父を助けて欲しい気持ちもあります、……小狐丸さん、貴方の傷は治します、その後、父のことはお任せしても構いませんか?」
「……勿論です、さま」
「ありがとう、どうか無理はせずに……、」

そう言って主は、手負いの刀の傷に手をかざす。そうしている間にもあたりの煙はますます密度を増し、あたりを渦巻く。息苦しく感じるのは決して気のせいではないだろう。

「ぬしさま、このままでは煙で息ができなくなってしまいまする」
「ごめんなさい、小狐丸ちゃん、もう少しだけ」

小狐丸達刀剣男士は多少の炎や煙でも耐えられるような強靱な身体を持っているから、彼女が謝る必要は全くない。が、彼女自身の身体が気に掛かる。そうしている間にも、煙の影に隠れて妖しげな光が一つ、二つ、三つ、霊狐もそれに気がついたのだろう、目を見開き、勢いよくこちらを振り返る。

「若い私!!敵が…ッ」
「分かっておるッ……!ハアッ!」

一閃、近寄ってきた異形を切り捨てる。なんとか散らしたが、相手もこれまで小狐丸がこれまで戦っていた有象無象よりも力のある者を集めたのであろう、思ったよりも固い。その上、異形達は居なくなることはなく未だ次々とその数を増やし続けている。

「小狐丸ちゃん!」
「お急ぎくだされぬしさま、この小狐、そこの霊狐のように練度は高くありませぬ、この数であれば保って数分…」
「大丈夫です、と言いたいところですが、私もまだ未熟な審神者です、数分でどこまで治せるかはわかりません……もう少し、十分間、稼げますか?」
「……善処しましょう!」

足に力を入れて、ダンッ!と大きく一歩踏み出す。
刃と刃とがぶつかり合って、ガキン!と大きな音を立てる。
力で押そうとしても押し返されて、骨と筋肉がバキバキと悲鳴を上げる。
戦ううちに少しずつ、複数を相手取ることにも慣れてきたが、岩融のように大きな刃を持つわけではないから、一体ずつ確実に倒していくしかない。
思うように身体も刀も動かずもどかしい。
と、そこで目に飛び込んでくる、
彼女に近づく黒い影が一つ、

背筋が凍る、
瞳孔を見開く、
叫んだ声が言葉にならない、
身体が重い、
あと数歩、
間に合え、
間に合え、

間に合え!!!!

すんでのところで、彼女と霊狐をまとめて引き寄せた。
ガリガリッ!と大きな音を立てて、二人が元いた場所の石畳が抉れる、
同時にブチブチッと何かを引きちぎるような音がしたが、今は気に留めてはいられない。

「ぬしさま、お怪我はありませんか」
「わたしは大丈夫……!ですが、小狐丸ちゃんの髪が!」
「髪……?…………!」

彼女に言われて気がついた。いつのまにか、己のさらさらと長い髪の毛は切り落とされて、随分と短くなってしまっている。抉られた石畳の方を見ると、所々に冬の太陽を浴びてキラキラと反射する白い糸の塊が見える。……間違いなく、小狐丸の髪の毛だ。

「……ごめんなさい、私のせいで、大事な髪の毛……」
「……ぬしさまをお守りできたのです、安いもの。……髪はまた伸ばすこともできます」

己が従者であるから主を気遣ってそう言ったのではなく、心の底からそう思って、そう口にした。不思議な心地だ。側にいる彼女がこんなにも大事だと思えるなんて。

「油断は禁物ですよ、若い私。まだ敵は残っています」
「小狐丸さんはまだ動かないで!小狐丸ちゃん、もう少し、お願いできますか?」
「ええ、ぬしさまをお守りします、この手で、」

再び駆け出して、刃を強く握りなおした。数え切れないくらい敵に斬りつけた。が、それと同じくらい、いや、それ以上に敵に斬りつけられた。
血を流しすぎたのだろうか、視界が霞む。足元もおぼつかなくなってきた。だけど、それでも、負けられない、死ねない、生き残る、彼女と共に!
どこかの枷が、外れた音がした。

「あれは……、」
「……真剣必殺、ですね」

血が滾る、主と霊狐の声が遠く聞こえる、腕を振るえば敵は倒れる、最早流れる血が敵のものか己のものかすらわからない、一面の赤、緋、紅、朱。

余裕などはとうの昔になくなっている。ただこの手で切り裂いて、全て、全てを!
「……よくやりましたね、若い私。もう十分です」

霊狐の一閃で、蠢く異形は消えた。まだ少し傷も疲労も残っているであろうに、さすがは練度の高い刀剣男士だ。と、同時に、小狐丸は膝から崩れ落ちる。……少々無理をしすぎたようだ。
幼い主が駆け寄ってくるのが視界の端に見える。

「小狐丸ちゃん!小狐丸ちゃん、」
「ぬしさま、ご無事で、」
「私のことはいいんです!小狐丸ちゃん、本当に、本当にお疲れ様でした……ありがとう、」

細い腕に、ぎゅう、と強く抱きしめられる。血に塗れた己を抱いては、彼女まで汚れてしまうであろうに、と思うが、心地よさにその体を引き離すのをつい忘れてしまう。審神者とは、主とは、人間とは、こんなにも暖かいものなのか。