君は瞬くあかつきの星 #1

そこは暑くもなく寒くもなく、ただ心地よい水の底のような場所だった。その刀はいつの時からかそこにいて、何者かはわからないが誰かに導かれるのをずっと待っていた。
 ぱちぱちと火の爆ぜるような音がする、安息香の香りが漂ってくる、そして、微かに己を呼ぶ声が聞こえる。
 今はまだこの身体が質量を伴っていないことは勿論気がついている。だが、肉体があるわけではないのになぜこんなことがわかるのだろうと不思議でたまらなかった。
 己を呼ぶ声が徐々にはっきりとして何を言っているのか聴き取れるようになってきた。ここから浮き上がる時も近いようだ。

「刀剣男士、さん、私の、私だけの、刀の神様、あなたの名前は……?あなたは、だあれ?」

 その呼び声は心地よく耳に響く。それに応えようと、彼はゆっくりと口を開いた。

「私は、私の名前は……、」

「大きいけれど、小狐丸。いえ冗談ではなく、まして偽物でもありません!私が小!大きいけれど!」

 膝をついて頭を下げると、まるでそのように言えと命じられたかのように、自然と口上が言葉となってこぼれ出た。これが"私"なのだ、刀剣男士小狐丸なのだ、と己の刀としての性が告げている。これは主に、たくさん使ってもらえるように、気に入ってもらえるように、大事に扱ってもらえるようにするための儀式だ。未だ顔を見ることができていない目の前の将に礼を尽くしたい、と己の刀としての性が告げている。戦場に赴きたい。多くの地で刀を手に舞い踊りたいのだと、己の武人としての性が告げている。

「こぎつねまる、小狐丸ちゃん?」
「ぬし、さま?」

想像していたよりも高く細い声に名を呼ばれ、思わず頭を上げた。小狐丸の目の前に座って居た人物はあまりにも小さく、心もとない。触れれば壊してしまいそうなほどの少女であった。驚く小狐丸を見て、少女は嬉しそうにニコニコと笑う。まさかこのような幼子が主であるわけがない、という気持ちと、いや彼女こそが己を扱ってくれる主に違いない、という気持ちがせめぎ合う。沈黙の一瞬が永遠のように思えた。耐えかねて何か言おうと口を開きかけた小狐丸の目に思いがけないものが映った。正面の彼女の他に人間が二人。一人は放たれる気から察するに、己と同じ刀剣男士であろう。問題はもう一人だ。その細身の男からは、強い霊力と、戦の将としての才をひしひしと感じる。ひょっとすると、もしかして、彼こそが……?

「……私のぬしさまは……あちらの益荒男でいらっしゃるのでしょうか?」
思わずそう問うが、彼は違う、と己の審神者に使役される刀剣男士としての性が微かに告げている。
「分かっているんだろう小狐丸。間違いないく、そこに居る彼女……が君の主だよ」
「あの、よろしくお願いします、小狐丸ちゃん!」
「……左様……ですか……」

やはり、だ。無意識のうちに眉間にしわを寄せてしまっていたようで、と呼ばれた小さな彼女が「大丈夫ですか?」と、心配そうに顔を覗き込んでくる。どのような者が主となるのか、様々な形を夢想してはいたが、まさか己を『小狐丸ちゃん』などと呼ぶ幼子を主とすることになるとは、予想もしていなかった。
小狐丸という刀は、主を持ったことが無い。いや、主を持ったことがないというと、語弊があるかもしれない。本来小狐丸という刀は、物語の中で五穀成就を願って打たれた御剣だ。芝居の中で幾人もの主を持ったし、作中の小狐丸を模した刀も打たれて各々が大事に扱われている。そう、刀剣小狐丸の本霊となる確固たるものは存在しないのだ。故に、数え切れないほど多くの主の手を渡ってきた、とも言えるし、主を持つのは初めてだ、とも言える。
だからこそ、刀剣男士として、どのような者を主とすることになるのか、多少の不安はあれ、楽しみな気持ちも大きかった。斯様な力を己に与えてくれるのか、と密かに期待していた。だが、己を出迎えたのはまだ夜中一人で厠に行くことすら困難そうな小さな子供。どのように話しかけようか、どのように可愛がってもらおうか、夢想してきた戦いの方法や修練の行い方、果ては本丸での生活に至るまで、全て思っていた通りにはいかないだろう。毛並みも上手に整えてもらえるかわからない。小狐丸はひっそりとため息をつく。

「さて、私とこの子は政府に報告に行ってくるからね、彼の案内は任せてもいいかな“小狐丸さん”」
「えっ、私も小狐丸ちゃんと本丸を周りたいです、……報告が終わるまで少し待っていてくれますか?」
「ええ、もちろんです」

小狐丸がぐるぐると考え込んでいるうちに、少女ともう一人の男は支度を整えて部屋から出て行こうとしていた。あの男がこの幼子の師、なのだろうか。……いや、それよりも、いま『小狐丸さん』と呼ばれなかったか、この刀剣男士は。

「じゃあ、小狐丸ちゃん、また後で」

様々なことが頭の中で渦巻いて、幼い彼女に手を振られてもなにも返すことができなかった。これから己はどうなってしまうのだろう。不安ばかりが募る。

「……心配することはありませんよ若い私」
「貴様……は……、」
「ええ、お察しの通り、私も貴方と同じ小狐丸。先程貴方が”益荒男”と呼んだ彼の審神者にお仕えしています。お互いに”小狐丸”ではややこしいでしょう、私のことはどうぞ『霊狐』とでもお呼びくだされ」

長い時を生き霊力を得た妖狐の名を名乗った『小狐丸さん』と呼ばれた刀剣男士……改め、霊狐の姿を上から下までまじまじと見る。小狐丸自身、己がどのような姿をしているのかきちんと認識したことはないが、なるほど確かに、霊狐が身につけている着物やふわりと揺れる白雪色の毛並みは己のものと似通っており、成り立ちを同じくする刀剣男士なのであろうということがわかる。いやはや、鍛刀されて一番はじめに出会う刀剣男士が同じ”小狐丸”であろうとは、偶然か、はたまた神の悪戯か。
それにしても、己と似通ったものが近くにいるということはあまり心地の良いものではない。手本になる存在がいる、といえば聞こえは良いが、様々な面を自分と比べて、苛立ったり傲慢になったりするであろうことは、今からでも手に取るようにわかる。顕現されてからのほんの短い間でも、己の様々な面がこの霊狐よりも劣っているような気がして、先達として敬意を払いたい気持ちよりも先に、悔しさ・歯がゆさが滲み出て、快いとはとてもいえないような態度をとってしまう。
そのような小狐丸の態度に気がついている上で穏やかな物腰を崩さずにいるのであろう霊狐は「そう警戒することはありませんよ」とくすくす笑う。

「若い私、貴方は、まだ幼い様が主として相応しくないのではないか、本当に彼女に従って良いものなのか、不安に思っているのではないですか?」
「……何故そう思う」

図星をつかれたような気がする。たしかに今現在、小狐丸は彼女のことをあまり快くは思っていない。口に出さずともわかってしまうのは、やはりこの霊狐が長く刀剣男士として生き力を得たからだろうか。そのような小狐丸の気持ちが伝わったのか、「いえ、ただの野生の勘、ですよ」と霊狐はまた笑う。

「……確かに貴方の主、さまはまだ幼い。加えて、彼女初めての刀が貴方です。不安に思うことも多くあるでしょう」
「だからどうしたと言うんじゃ、ああ見えてあれが私達のように齢千歳を超えているとでも言うのか?」
「いえ、彼女は見た目の通りまだ幼い、それを否定することはありません。ですが、彼女はたぐいまれなる才の持ち主であると言うことを、彼女と共に過ごすうちに感じ取っていただけるだろうと私は思っていますよ」
「……そんな簡単な話ではなかろう」
「ふふ、簡単な話ですよ。私たちは刀剣男士ですからね。まあ、最初は心でどう思っていても、態度で彼女を敬っていればそれで良いでしょう」

私たちは刀剣男士……、顕現されたばかりの小狐丸は刀剣男士という人と刀と神の性質が混在した存在がどのようなものかまだ理解できていない。彼女と過ごすうちにわかるのだろうか、彼女と過ごすうちに感じることができるのだろうか、わからないことだらけだ。そのようにまだ思い悩む小狐丸を見て、霊狐は再び「ですが、」と口を開く。

「……ですがもし、それでも貴方が彼女を主として認めることができないというのであれば、ぬしさまの大事な一人娘を主と認められるような愚鈍な刀であるならば、」
すう、と霊狐は目を細める。部屋の温度が一気に下がったような気がして、小狐丸はびくりと身を固める。
「貴方を切り捨て、折って差し上げます故、ゆめゆめお忘れなきよう」
「……ふん、返り討ちにしてくれるわ」

放たれたのは確かに殺気であった。強がりで言葉を放ったものの、息も絶え絶えだ、微かに膝も震えている。同じ小狐丸でありながらこうにも違うのか、それとも練度を上げると己もこのようになるのであろうか、今はまだ一寸先は闇のまま。

ピリピリとした空気を、引き戸を開けるガラリという音が切り裂く。

「小狐丸ちゃん!小狐丸さん!おまたせしました!」

少しだけ息を切らした幼子は馬鹿のように明るい声でそう言って笑う。武功も経験も何一つ持たない未熟な子供だ。霊狐はそうはいうものの、彼女がどれだけの力を持つのか、小狐丸には全くわからない。だが、今この瞬間、彼女の声を聞き、安心感を覚え、肩の力が抜けて、呼吸がまともにできるようになったことは確かだ。
楽しそうに笑うこの娘は、本当に私の主となることができるのであろうか。

「改めて、よろしくお願いしますね、小狐丸ちゃん!」

小さな少女はそう言ってぺこりと頭を下げた。

「……こちらこそ、……ッ!?」

そう、一応返したものの、上手く彼女に伝わっていたかは定かではない。霊狐に思い切り足を踏まれ「頭が高いですよ、若い私」と囁かれた。最初は心でどう思おうと構わないが、態度の上では彼女を敬えとはこういうことだろうか。思わず舌打ちをしてしまいそうになるが、必死に堪える。霊狐は己より数倍、いや数十倍の力を持つ刀剣男士だ。今ここで歯向かってもあまり良いことはないだろう。

「政府への報告はお済みですか、様」
「はい、小狐丸さん!大丈夫です!父はこんのすけさんと次の任務についての話があるとのことだったので、私は先にこちらに戻って来たんです」
「それはそれは、お疲れ様でございました。こちらの準備はできております故、若い私に本丸を案内しましょうか」

己を差し置いてニコニコと楽しそうに会話する少女と霊狐を見ていると妙に腹立たしい気持ちになってくる。化けの皮を被るのがうまい狐だ。それも、顕現されてからの年月の長さ故成せるものなのだろうか。

少女と霊狐は案内が上手いとはとてもいえない二人であった。縁側ではのんびりと茶を啜っていた刀剣男士(三日月宗近というらしい)としばらく話し込んでしまっていたし、中庭ではついでに草花に水をやるのだと如雨露いっぱいの水を撒いて足下をびしょびしょに濡らしてしまったし(幸い衣服は濡れなかったがふんわりとした小狐丸の毛並みがすこしぺたんと湿気てしまった気がする)、厨では酢飯を詰めていなり寿司にする前の油揚げを見つけしばらくその場から離れられなくなったりもした(このいなり寿司後ほど、小狐丸の歓迎会で振る舞われるようだ。つまみ食いをしようとする霊狐を止めるのは骨が折れた)。
卒のない案内だった、とはとても言いづらい一時であったが、ひとつひとつ丁寧に説明する彼女は常に楽しそうで、時折小狐丸と目が合うと一層うれしそうに微笑むものだから、その度に、どこかむず痒いような、いたたまれないような、奇妙な感覚で心臓が揺れた。
それにしても、どうしてこんなにも嬉しそうな顔をするのだろうこの幼子は。顕現して数刻もたっておらず、彼女と出会って間もない小狐丸だが、己がこの少女に大変好かれているのだということは言葉にされずとも、心が読めずとも、わかる。が、ここまで純真無垢な感情を向けられては本当に自分で良いのだろうかと少し不安になる。小狐丸自身はまだ彼女のことを心の底から主として敬意を表することができていないというのに。呑気な娘だ。

「鍛刀部屋、厠、中庭、時空門、演練場、畑、馬小屋、浴場、厨……あとはどこを案内しておけば良いでしょうか……」
「他の刀剣男士の部屋やぬしさまと様のお部屋はそのうち覚えるでしょうから……ひとまず彼の部屋、ですかね」

少女は霊狐の言葉に頷き、「こっちです」と小狐丸を手招きしてくる。広い本丸は1日で全ての構造を把握するのはとても難しいだろう。が、自室までわからないとなれば間違いなくただの間抜けと思われるであろうから、必死で道順を覚える。

「小狐丸ちゃんのお部屋は一人部屋なんです。『お前の始めての刀だから良い部屋を与えてやれ』って父様が言うから……。お部屋の掃除と片付けはしておいたから、大丈夫だとは思うのですが……不便な事があればすぐに言ってくださいね」

そう言って彼女が襖を開けたのは、離れの二階にある南向きの部屋。広くはないが、日当たりは悪くなさそうだ。家具も華美なものではないが、丁寧な造りのものが備え付けられている。

「寝間着や洗面具や下着は押入れの中、食器類は文机の横の棚のものを使ってくださいね。あ、支給品ばかりなので、名前を書いておかないと他の方のものと混ざってしまうかもしれません。お給料が入ったら気に入った色柄のものに買い替えても大丈夫ですよ」

部屋にあるものを一つ一つ説明していく少女はてきぱきと手際よく、年の割に落ち着いて弁えているようにも見えるが、反面その声は年相応にうきうきと楽しそうだ。
そうして一つ一つ部屋の中のものを確認していくうちに何か気になるものを見つけたのだろうか、ふと、彼女の手が止まる。

「あれ、これは……」
「どうされました?」
「これ、誰が用意してくださったんでしょうか?」

そう言って彼女が指し示すのは細長い包み。
そっと持ち上げると思ったよりも軽々としているそれは、小狐丸や本丸の者たちを傷つけるために用意された武器や火薬の類ではなさそうだ。恐る恐る包みを解くと現れたのは……。

「……三味線?」
「ええ、様。それは私から若い私に、ですよ。先程藤四郎の短刀達に会った時にこちらに運ぶようお願いしていたのです。……合皮製の稽古向けの品物ですが……。私は少し前に紅木の物をぬしさまにお譲りいただきました故、こちらは、貴方に」

驚き、というのはこのような感情なのであろうか。目を瞬かせると霊狐は「思ったよりも良い反応をするのですね、貴方は」とくすくす笑った。

「何故このようなことを……」
「この身になれば歌うことも舞うこともできます。私たちの出生を歌った謡曲は今は長唄や歌舞伎の演目としても親しまれていますからね、これで弾き語ることもできるでしょう。……嗜みとして、自身の成り立ちに触れておくのは悪いことではありませんよ」

霊狐はその楽器の細長い部分をするりと撫でて、「教本もつけておりますが、分からないことがあればいつでも教えます故、気軽に聞いてくださいね」と穏やかに目を細める。先ほどのピリピリとした空気は何処へやら、だ。同じ狐の眷属ながら、これが考えていることはよく分からない。

その日小狐丸は夢を見た。
木槌を持った幼い審神者・の前に小さな狐が一体、木槌を振り上げれば、狐も合わせて打ちおろす。その様子を小狐丸自身は一人と一匹の頭上から見下ろしていた。手には三味線、かき鳴らすと一人と一匹の相槌はより美しく、熱くなった鉄は光を放って一層と輝く。
まるでのために誂えられたかのような小さな獣の動きに感嘆の溜息をこぼす。

「小狐丸ちゃん、」

彼女が呼びかけたのは打たれた刀に対してか、それとも己に対してか。
返事をする声を上げようと口を開きかけると同時により深い眠りに導かれ、夢の記憶は掠れていく。