「面倒なことになった……」
ぼそり、と呟いた声は誰にも拾われることなく消えた……と思っていたが、「小狐丸ちゃん、面倒なことって何ですか?」という声で独り言が愛しい彼女の耳に届いてしまっていたことを知ることになる。
「ぬしさま!いつから此方へ?」
「ついさっき、です。小狐丸ちゃん、先程のお手紙、なにか困るようなことが書いてあったんですか?」
「いえ、ぬしさまがお気になさるような事は何も……と言いたいところですが、そうも言ってはいられないようです」
小狐丸は深々とため息をつく。
小狐丸は刀剣男士であるから、他所から手紙が送られてくることなどそう滅多にあることではない。差出人の名前や消印などもないから、初めは驚きが好きな白い太刀の悪戯か、主が幼い頃夢中になっていた"お手紙ごっこ"を再開したのかと軽く考えていた。が、内容を読んでその考えは霧散する。手紙の送り主も、その内容も、思いもよらぬものであった。
「……ぬしさまは、小狐丸が刀の付喪神であると同時に、狐の眷属であることはご存知ですね?」
「高いお山に居る稲荷明神様の加護を受けている……と前に小狐丸ちゃんも言ってましたね」
「ええ、その通りです」
小狐丸は頷く。顕現されて数ヶ月が過ぎた頃、己の中に審神者によって練り込まれた刀としての力・人としての力・付喪神としての力の他に、獣としての力が練り込まれていることを自覚した。それが稲荷明神の加護。普段特別役に立つ事はないが、時折頭の中にふと蘇る、奥深い山の中の記憶は稲荷明神の側に霊魂が居た時のものなのであろう。また、怪我をした時や体調を崩した時は他の刀剣男士と比べて治りが早いのもこの狐の力のおかげであると、こんのすけや他の小狐丸から聞いた。
「その稲荷明神が、『折角今生で人の身を得たのだから、一度くらい山に挨拶に来い』と」
「まあ!それは早くお伺いしなくちゃですね、数日お休みがあれば行って帰って来れますでしょうか?」
「いえ、それが……、私以外の"小狐丸"も山に出向いていないものが大勢居て、稲荷明神は怒り心頭のようでして……。『顕現して数年経っているのに一度も山に来ないとは刀剣男士達は余程本丸とやらから離れたくないと見える、稲荷明神自ら付喪神達の様子を見て周る故、各々本丸で待っておれ』と……」
「稲荷明神様が、自ら!?」
主は驚いたように目をパチクリとさせる。小狐丸でさえ驚いたのだ、無理もない。だが、あちらにとっては刀剣男士など分霊の分霊のそのまた分霊のようなもの。一振り一振りのために時間を割いて本丸を周るとは思えない。
「……きっとこの手紙は戯れの脅しのようなもの、でございましょう。『早く山に来なければ、本丸の刀やぬしさまに手を出すぞ』と暗に伝えているのかもしれませぬ」
「そ、そうなんですね、じゃあやっぱり一度はこちらからお山にご挨拶に行かなくちゃ、ですね」
「ええ、近々、都合をつけてあちらに出向きましょうか。数日暇を……いえ、ぬしさまのお時間を頂きたく存じます」
「えっ、私の?」
「折角の機会ですからね、私のお嫁さまを同じ狐の眷属達に紹介しようかと」
お嫁さま、という言葉にポンと頬を染めて「もう、小狐丸ちゃんたら、」と俯く。その可愛らしい様子を見ているだけで、思わぬ手紙によってもやもやしていた気持ちもたちまち上向きになるから人の身とは実に単純なものだ。「婚前旅行、ですね」と笑い上機嫌に彼女の頭を撫でたちょうどその時、外の廊下をパタパタと駆ける音がして、きちんと閉じられていた襖がスパンッと開いた。
「ここにいたんですか、あるじさま!こぎつねまる!」
「今剣ちゃん!?」
「……何の用じゃ小天狗」
慌てた様子で部屋に入ってきた今剣は「たいへん、たいへんです!」と審神者の周りをぴょんぴょんと跳ねる。見た目の割に落ち着いているこの短刀がこのような様子を見せるのは大変珍しい。
「今剣ちゃん、どうしたんですか?」
「あるじさまと、こぎつねまるに、おきゃくさまですよ!おおきいきつねの!」
「!、大きい、狐……?」
「……稲荷明神か、」
気づけば外は通り雨。太陽の光は確かにそこに見えているのに、雨粒が窓硝子を叩く音は止まる事が無かった。

客間に通された稲荷明神は嫋やかな尻尾をふわりふわりと揺らし、出された湯呑みをチラと横目で見て、側仕えの白狐にすぐに縁に避けさせた。
「久しいな、我が六〇七一二番目の分霊にして八〇四振り目の小狐丸よ」
「……はい、稲荷明神殿」
「して、こちらが本丸の主殿、か。我が分霊が常々世話になっておる」
「は、はい、稲荷明神様、こちらの方こそ、小狐丸ちゃん……小狐丸様には、いつもお力を貸していただいております……」
小狐丸が頭を下げると、主もそれに合わせて深々と頭を下げる。普段であれば、「私は従者であります故、『小狐丸様』などと呼ぶのはおやめくだされ」と彼女を諌めるところだが、そのようなことを言える状況ではない。
二人が頭を下げている間も、稲荷明神はグルグルと元来の獣のらしく喉を鳴らしたり時折「ふうむ、」と感嘆とも幻滅ともつかぬ声を上げたりとこちらに考えていることを悟らせてはくれない。
ただ、挨拶だけですぐに山に戻ってもらおうと思っていたが、どうもそうはいかないようだ。しばらくまじまじと審神者と本丸内を観察していたらしい稲荷明神は不意に「そなた、」と審神者に声をかける。
「……そなた、顔を上げよ。名はなんという」
「えっ、わた、私ですか?」
少し驚いたような反応を見せる彼女を見て、大狐はクック、と喉の奥で笑う。
「他におるまい、……ふむ、真名はそなた自身も知らぬようじゃな、上の者共に隠されたか……、審神者としての名は……ふしみ、と。我が加護を授けた一番目の分霊と同じ名、なのじゃな」
「ええ、と、はい。ふしみ、と、申します」
ふしみ、という彼女の審神者としての名は以前から小狐丸も知っていたが、彼女本人でさえ彼女の真名を知らずにいるとは……。小狐丸も教えられていなかったような事柄を稲荷明神にあっさりと暴かれ、嫉妬のような羨望のようなモヤモヤとした気持ちが胸の中で渦巻き始める。そのような小狐丸の心のざわめきに気づいているのかいないのか、稲荷明神は更に主の方に一歩近づき、撫でてくれとでもいうようにその膝に頭を擦り寄せる。審神者は、小狐丸の本霊を前にして緊張している上に、ふわふわとした動物を好いているから、稲荷明神が近づいてきても拒むことはない。それを良いことに、この大狐は遠慮なく彼女の側で丸くなり、ふわふわの尻尾を揺らし始める。
「ふしみ、そなたは良い力を持っておるなあ、人なぞのために使うのは勿体ない程じゃ。……どうじゃ、我の嫁子となり稲荷の狐達のためにその力を使う気はないか?」
「え、よ、嫁…嫁子!?稲荷明神様の!?」
「うむうむ、そなた程の力があれば、山に登れば不死の力を得ることもできよう。どうじゃ、悪い話ではないとは思わんか?」
本霊であるから、彼女が嫌がっていないからと好き放題にさせていたらなんとも勝手なことを言い始めた。小狐丸の胸でモヤモヤと渦巻いていた感情に一気に火がつき、燃え広がり、パチパチと爆ぜる。
「……稲荷明神殿……、その方は、私のぬしさま、……私の、お嫁さまです」
「ほう、」
「こぎ、つねまるちゃん、」
思っていたよりもずっと低く冷たい声が出た。彼女を怖がらせていないだろうか、という不安が少し頭をよぎるか、今はとてもそのようなことに気を配ってはいられない。
「だからどうじゃと申す、八〇四振り目の小狐丸よ、」
「その方は、私のお嫁さま、……ですから、稲荷明神殿、どうかその方に手出しをする事はおやめ頂きたく……」
しばらく時が止まったかのように誰も何も言わなかった。このまま殺されてしまうのかとさえ思った。が、最初に口を開いたのは、稲荷明神の側仕えの白狐達だった。
「……稲荷様ヲ前ニ何ヲ言ウ!無礼ダゾ、コギツネマル!」
「ソウジャ!コノ娘御モ、稲荷様ト共ニ有ル方ガ幸セニ違イナイ!」
「稲、穀、少し黙っておれ……、お嫁さま、お嫁さまなあ……、ふふ、」
「……何がおかしいのです」
「いやなに、我がこれまで見てきた"小狐丸"達はどうも本丸の審神者に入れ込みすぎているような気がしてなあ、簡単に、審神者を嫁にするなど宣うのじゃ」
稲荷明神は楽しそうに笑う。まるで、付喪神の思慕などただの一時的な気の迷いだ、気まぐれだ、とでも言うように。……気の迷いであるものか、気まぐれであるものか、だとすればこの燃えるような苛立ちは、身を焦がすような思いは、紛い物であるとでも言うのか。
「簡単に、など……、そのようなこと、」
「無いと言い切れるのか?」
「勿論です」
稲荷明神の問いに、小狐丸は深く頷く。彼女と共に在る覚悟は、とうの昔にできている。その思いに嘘偽りはない。そらす事なく、真っ直ぐと本霊の宝石のように鈍い光を放つ瞳を見つめた。
「……では、今ここでふしみと目交うてみよ」
「は?今、何と……?」
目交うてみよ、とはつまり、彼女と体を重ねろ、という事であろうか。ここで、稲荷明神の目の前で……?
「本霊が目を付けた人の子と番となる、その覚悟ができているのであれば、本霊の前でその子と目交うくらいどうという事はない、そうであろう?」
稲荷明神の目がスウと細くなる。その巨大な獣から目をそらす事が出来ずに、小狐丸はゴクリと唾を飲み込んだ。