君の両手はひとひらの #5

主の怪我は、医者によると背や足などに打ち身はあるがなにか身体に不具合が残ったり命に関わるような状態でもないし数日もすれば完治するとのことだったが、本丸に戻ってからしばらく彼女は目を覚まさなかった。疲労なども相まってなかなか起きることができないのだろうか。心を読む力が備わってからずっと彼女に触れることに恐怖を感じていたが、いまはそれよりもこのまま彼女が起き上がることができずこのまま眠ったままであることの方がもっと恐ろしい。触れることができないだけでなく、目を合わせることも、言葉を交わすことも、できないだなんて。
医者が心配することはないと言うのだから、しばらく待てば目を覚ますことはわかってはいる、わかってはいるけれど…。

そのような葛藤を小狐丸が一晩中続けたことを知ってか知らずか、一夜明けて朝焼けに空が染まる頃、小さな身体の愛しい主はゆっくりと瞼を持ち上げた。

彼女が目を覚ましてから静まり返っていた本丸は瞬く間に慌ただしい空気に包まれた。戦場で傷ついた時のための保証や治療費に関する手続きや、政府への報告、溜まっていた平時の仕事など、彼女の仕事が尽きることはない。休ませてやりたいと思ったし、「しばらくお休みになってください」と何度も進言したが、彼女は「身体を動かしている方が早くいつも通りに戻れそうだから…」と手を休めなかった。
そんな中、主が目を覚ましたことを聞きつけたのだろう、こんのすけが様子を伺いにやってきた。あの時のように、書斎となっている一間で小狐丸は主と二人並んで政府より派遣された管狐と向き合う。、開口一番に小狐丸が最も触れて欲しくなかった話題を持ち出してきた。

「いかがですか小狐丸様、新たな力は」
「なっ、」
「えっ、新たな…力?」
「おや、まだ審神者様にお伝えしていなかったのですか、これは失礼、」

そう言ってこんのすけはぱたりと尻尾を揺らして小狐丸をちらりと見る。今ここで伝えてしまえと促すように。それでも、小狐丸は何も言えない。

「…小狐丸ちゃん、新たな力って?」

彼女が不安そうな表情をする。彼女にそのような表情をさせたいわけではないのだ。「私から申し上げても良いのですよ、小狐丸様、」と冗談か本気か判別できないようなことを言う管狐を睨みつけて黙らせた。

もう、ここで言ってしまうしかないだろう。どちらにせよ、いつか伝えなければならなかったことだ。息を少し吸い込むだけで、口の中がからからに乾いていく。恐怖とはまた違う、心臓が真綿でぎゅっと締め付けられるような…。それでも、いまの機会を逃せば彼女に伝えられないままズルズルと時を過ごしてしまうだろう。そのうち、政府からの書面で小狐丸が授かった能力について知ることになる。自分以外の口から自分のことが主へ伝わるのは気にくわない。
そのような気持ちが、自分の口から、きちんと、伝えられるだろうか。小狐丸はゴクリと唾を飲んでからゆっくり口を開いた。

「……心を、読む能力を、授かりました」
「……心、を…?」
「今ここで触れれば、ぬしさまの心も思うままに読み取ることができる、そのような能力です」

今までお伝えすることができず申し訳ありません。

小狐丸は頭を下げる。彼女の顔を見なくても、主から戸惑いの感情がありありと伝わってくる。彼女に促され顔を上げると、幼い主の表情は途方に暮れていた。
信じられない、だけど本当に小狐丸が人の心が読めるのであればここ数日の小狐丸の行動にも納得がいく、それでも……そういったことを延々と考え続けているのだろう。普段であれば目まぐるしく変わる彼女の表情に目を細めるところだが、いまはそういうわけにもいかない。

しばらく誰も何も言わなかった。小狐丸と審神者が何も言えずにいることを察したのか、再びこんのすけが口火を斬る

「ところで小狐丸さま、審神者様が戦いの場で何を思われていたか、この管狐に教えてくださいますか?」
「…貴様などにぬしさまの心の内を教えるわけがなかろう。」

そう言って小狐丸は政府からの遣いを睨みつける。が、そういった扱いには慣れているのだろう、管狐は飄々とした態度のまま尻尾を揺らして続ける。

「…では、当てましょう。…審神者さまは、謝っていたのではないですか?」
「!」
「切られる敵に、ひたすら、謝っていた。そうでしょう、」
「な、何故…、」

確かに、小狐丸は戦闘中繋いだ彼女の手から彼女の心を読んだ。何者かにずっと謝り続けている彼女の心を。驚いて目を見開く小狐丸と審神者の表情を見て、こんのすけは呆れたようにため息をつく。

「報告書を送るときの申し訳なさそうな顔を見れば分かります、審神者様、斬られたら破壊されるとはいえあれは敵。斬ることを恐れたりためらったりしては……、」
「ち、ちがうの!」

こんのすけの言葉を遮るように、それまで黙っていた主が声を上げた。「ぬしさま?」と声をかけると、彼女は今にも泣きだしそうな顔で小狐丸の着物の裾をきゅっと握り、口を開く。

「違うんです、勿論、斬られた敵の刀剣たちを哀れに思うことは、あります。でも、それだけじゃなくて、もしかしたら、いつか小狐丸ちゃん達も敵に斬られてしまうかもしれない、傷ついてしまうかもしれない、それが怖くて、辛くて、そんな場に行くように指示していることが申し訳なくて…!」

嗚呼、やはり彼女は優しい。肩を震わす彼女をおもわず引き寄せて抱きしめてしまいたくなるのをぐっとこらえた。そのような小狐丸に反し、こんのすけは冷静な表情のまま彼女の目を見る。

「審神者様、ご存知とは思いますが刀剣男士は斬るために生まれた付喪神。敵を斬る喜びこそあれ、そこに負の感情はありません。審神者様が申し訳なくなることはありませんよ」
「でも……、」
「……ヒトと刀剣男士の考え方は少し違うのです。貴女のその人間としての優しさによる躊躇いが刀剣男士の力を弱め、それが破壊につながることもあるのだということを、ゆめゆめお忘れなきよう。」

ヒトと刀剣男士の考え方は少し違う……本当にそうだろうか。こんなにも近くにいるのに、そばにありたいのに。

「申し訳ございませぬ、ぬしさま!」

こんのすけが部屋から出て行った途端、小狐丸は再び主に向かって勢いよく頭を下げた。

「この小狐丸、主君の心を読み、あまつさえ上のものとはいえ他のものに知らせてしまうなど…、」
「頭をあげてください、小狐丸ちゃん、わたしも、小狐丸ちゃんのことに気づけなくて、ごめんなさい、」

そう言って彼女も頭を下げる。そのように謝る必要など全くないのに、目の前の幼い主はやはり優しい。先程の管狐の言うように優しさで身を滅ぼしてしまうのだろうか。同じことを主も考えていたようで、頭を下げ、下を向いたたまま絞り出すように小狐丸の名を呼ぶ。

「……ねえ、小狐丸ちゃん、……こんのすけさんが言ったことは、本当なのでしょうか」
「ぬしさま……、」
「私ね、優しいわけではないんですよ、嫌われるのが怖いだけ」

主の願い、思いが、己のそれと重なる。今のままでは主に触れることができないと思ってた。不用意に触れてしまい彼女の心を読んでしまうことを恐れて、予防線を張って彼女を遠ざけた。……嫌われるのが怖いのは、小狐丸も同じだ。

「ぬしさま、私も同じ、ですよ。私も、ぬしさまに嫌われるのがとても恐ろしゅうございます」

そう言うと、彼女はゆっくりと顔を上げる。今にも雫がこぼれ落ちそうなほど涙を溜めた瞳が、夕暮れの光にキラキラと反射する。この美しく澄んだ瞳は、嫌われることを恐れては守れない。だとしても、このまま嫌われずに居たいと傲慢にも思ってしまう。嫌われても良いと割り切ることができないのだ。だから、

「嫌わないで、そばにいてくだされ、ぬしさま……」

今のままでは嫌われることを恐れては守れないのならば、彼女は自分のことが好きだと確信したままでも守れるほど強くなる、と、心に決める。
彼女ではなく己の頬から、ぽたり一粒落ちた雫に、気がつかないふりをした。

しばらく二人とも一言も発することなく側にいた。が、ふと思いつき、「ぬしさま、お願いがございます」と口を開くと、それまで何も言わず黙っていた彼女が「なんですか?」と首をかしげる。

「ぬしさまは以前、特のついた小狐丸のために何かお祝いをしてくださると、そうおっしゃってくださいましたね」
「え、ええ、」
「そのお気持ち、今も変わり無いと考えてもよろしいですか?」
「……はい、私にできることならば、何でもしますよ」

そう言って彼女は目を細めて頷く。本来であれば彼女を困らせるようなことはしたくはない、が、しばらくそばにいることができ無い期間があった今は元に戻すためのほんの少しの荒療治が必要な気がした。
彼女の目が真剣であることを確認し、小狐丸はでは、と口を開く。

「この小狐丸が、ぬしさまに触れることをお許しくださいませぬか、」

身体の一部に触れてしまえば心の内が小狐丸に全て伝わってしまうことは、すでに彼女に知られてしまっている。
そのような小狐丸の葛藤をよそに、彼女からの返答は「そんなもので、良いのですか?」という拍子抜けするほどあっさりとしたものだった。

「大丈夫ですよ、小狐丸ちゃん。そのくらい、いくらでも、」
「それは……私の唇でぬしさまの唇に触れるというかたちでも、」

声が震える。
小狐丸が触れるとこの娘はなんとも幸せそうな顔をしていた。それが小狐丸も嬉しかった。彼女に触れることは、喜び以外の何物でもなかった。彼女にもっと触れたいと思った。
刀剣男士というものがそういう性質なのか、それとも人間の性質なのか、はたまた小狐丸自身がそうしたいと思ったからか、今でもよくわからない。彼女が良いと言えば、今すぐにでもその場所を、唇を、奪ってしまいたい。

「構いません」という彼女の言葉は聞き間違いかと思った。思わず「今、なんと?」と問い直してしまう。主は嬉しそうな表情で、同じ言葉を繰り替えす。

「小狐丸ちゃんなら、いいですよ、」
「……良いのですか、ぬしさま。口付けるということがどのようなことか、おわかりで?」
「勿論です」
「…それにこの小狐丸に触れては心を…、」

小狐丸は言葉を詰まらせる。が、彼女はゆっくりと小狐丸の目を見て微笑んだ。そのちいさな手に触れなくても、彼女の気持ちが伝わってくる気がする。暖かくて、優しい。「大丈夫ですよ、」というその声も穏やかで、小狐丸の強張った心を溶かしていくようだった。

「触れられて、読まれて、困るようなことは、もうないですから……ねえ、小狐丸ちゃん、」
「…はい、なんでしょうぬしさま。」
「目を閉じて、私が良いというまで、開けないでくださいね。」

彼女にそう言われたら、小狐丸は従うことしかできない。目を閉じると、彼女がゆっくりと近づいてくる気配を感じる。彼女の小さな手が己の着物の裾に触れるのを感じる。
そのまましばらく、彼女も小狐丸も動かなかった、が、不意に柔らかいものが小狐丸の唇に触れた。しばらくの間、柔らかく温かいそれはそこにとどまり、それからゆっくりと小狐丸の唇から離れる。頬に添えられていた手もそっと降ろされた。
彼女の「いいですよ」という小さな声に目を開けると、愛しくて触れたくて仕方がなかった彼女が、とろりと蜂蜜が溶けそうな表情でそこにいた。

「ねえ、小狐丸ちゃん、私の気持ち、わかりましたか?」

その問いに何も答えることができなかったから、言葉にする代わりに、彼女の細い身体を引き寄せて桜色の唇にそっと己のそれを合わせた。