小狐丸が主に己の授かった力のことを伝えるより前に、彼女が共に行く二度目の出陣の日と相成った。前回の穏やかな気候とは打って変わって、空には鈍色の雲が立ち込めている。まるで今の己の心のようだと小狐丸は思う。
この幾日かで特別悪い出来事が起きたわけではない。が、主が近くに居るはずなのに、手を伸ばすことができない、触れることができないというだけで感じる心労はいつもの倍以上に思われ、小狐丸の気持ちをじわじわと重くしていく。どろどろとした汚水を、心臓の辺りにある桶に少しずつ注がれているような、そんな心地だ。
刀剣男士たちにとっての戦場である過去の地へは、本丸に備え付けられた門を潜り移動する。赴く日時の設定や座標の調整等、面倒でかつ正確さを要する作業は審神者と政府の者でしかできないらしく、小狐丸はよくその仕組みが分かってはいなかったが、ここをくぐれば時間遡行軍に攻撃されている時代の攻撃されている地域にたどり着けるということは確かだ。
此度の出撃ば前回の功績を買われてか、小狐丸が隊長に任命された。普段であれば手放しに喜ぶところであるが、今の自身の状態では簡単に喜ぶことができない。主が共に戦場へ赴くのであれば、戦果をあげるのみでなく彼女のことを守りながら戦わねばならない。以前はそれが全く苦だと思わなかったが、いまは非常に重い責を感じる。

戦場に着いたら、周りを警戒し、偵察を行う。いつも通りだ。そこに主がいても、その主の心を読む力を手にしていても。
だがやはり、いつも通りと心がけていても、側に愛しい彼女がいて、その彼女の気持ちをそっくりそのまま読めてしまう状況では、どこか気もそぞろになってしまう。
そうこうしているうちに、空を切るような音とともに歴史修正軍が現れる。隊列を整える間も無く、敵に辺りを囲まれてしまった。
相手の隊は短刀と、太刀と、大太刀、薙刀、こちらとほぼ変わりない編成だ。どの相手も特別小狐丸たちに比べて強いということはなく、一対一であればさして脅威ではないだろう。が、戦は個々の強さで結果が決まるわけでは無い。隊の陣形、統率、運でさえも、勝敗を左右する要因になり得るのだ。
それは小狐丸だけでなく、隊の全員が理解している。が、たとえ理解していても状況が隊にとって不利であることに変わりは無い。じりじりと後退すると、足元の砂がじゃり、と音を立てた。
「…まずいな。」声に出したのは誰だっただろうか。その声を聞いて、小狐丸の手と繋がれた主の小さな手にぎゅっと力がこもる。心を読まずとも、緊張感と恐怖が伝わってきた。
最初に土を蹴ったのは、今剣だった。懐に飛び込み、間合いを詰めて敵を斬ることが得意な天狗のような付喪神は、敵の中でも最も早く身軽そうな刀に一太刀を浴びせる。それを合図に敵も味方も、一斉に刀を構え振り下ろす。戦闘開始だ。
小狐丸も、自らの刀を握り直し、目の前の敵と向き合う。主の手を取りながら戦うのは、前と同じだ。問題なく、敵を斬ることができる。彼女を、守ることができる。
素早い敵、身体の大きな敵、様々な敵を斬り倒していくうちに、小狐丸はどこかから声が聞こえることに気付いた。不思議な声だ。決して大きい声ではないが、強い意志を持っている。さざ波のように近づき、遠のき、心地よく、切ない。耳ではなく、近くて遠いどこかから聞こえてくる。これは、
…主の、声だ。

ーーごめんなさい、
彼女の心の声は悲しそうに、苦しそうに、誰かに謝っていた。
原因や、彼女の本当の意図ははっきりとわからない。そのような深い部分まで読み取るほど、小狐丸の力は発達していないようだ。それでも、彼女が謝り続けるから、小狐丸も胸が苦しくなってくる。それは、自分へ向けられた言葉ではないはずなのに。
彼女の心の声を読み取る度に、戦よ早く終わってしまえと、気持ちが焦る。彼女の悲しい声など、聞きたくないのだ。
そのような彼女の心の声に気を取られていたからか、死角から迫ってくる敵の刃に気がつかなかった。すぐそばまで迫ってきている、狙いは小狐丸ではない、手をつないだ先の主だ。…このまま手を離さず繋いだままでいれば、彼女は切られる。
勢いよくその小さな身体を引き寄せることも、咄嗟に敵の手の届かないほど遠くへ突き飛ばすこともできた。それでも、気がついたら、するりと彼女の手を離してしまっていた。
確かに、主が切り裂かれることは免れた。が、手を離したままでは危険なことに変わりがない。敵の投石兵が放った石に、彼女の身体が吹き飛ばされたのは小狐丸が手を離してすぐの出来事だった。
通常であれば決定力に欠ける武具だが、上手く投げれば遠戦で眼を見張る活躍をする。加えて、ぶつけられたのは体重の軽い主である。傷を負うばかりでなく、その投げつけられた石の速さと重さで身体を支えられなくなってしまうのは当然だろう。
ゴッ、という鈍い音と共に彼女の鮮やかな色の着物が宙を舞う。
小狐丸が状況を理解するにはそれで十分だった。
「ぬしさま…!」
口の中がカラカラに乾く。地面に落ちる前になんとか受け止める。目を閉じて気を失った彼女の普段以上に真っ白な肌は冷たく、死んでしまったのではないかと焦り、震えながら彼女の唇に耳を近づける。呼吸音が聞こえる、彼女は、生きている。
だが、手を離したことへの後悔、敵への怒り、彼女を失う恐怖、様々な感情が頭をぐるぐると回る。
ガキンッ!
彼女を抱きかかえ、途方にくれた小狐丸に向かって、振り下ろされかけた敵の刃を受け止めたのは、三日月宗近だった。
続いて、今剣も大きな敵の合間を縫って、こちらへ駆け寄ってくる。
「よそ見をするな、小狐丸。我らが折れたら、誰が主を守る。」
「ぼくがあるじさまのそばにいます!だからはやく、こぎつねまるはてきをたおしてください!」
抱きかかえた彼女の体が、熱いのか冷たいのかよくわからない。小さなその身体を抱きすくめ、不甲斐ない自分を心の中で罵ることしかできない。彼女をもう、離したくない。
「こぎつねまる!はやく!」
「己の未熟さを悔やむ暇はないぞ、小狐丸。」
話しながらも三日月は向かってくる敵を容赦なく切り捨てていく。まるで赤子の手を捻るかの如く。
それを見て小狐丸はぐっと唇を噛みしめる。そうだ、思い悩んでいる場合ではない。今ここで敵を斬らねば、彼女を守れない。今剣に、抱きかかえていた彼女を託す。未だ目を覚まさない彼女と、彼女を支える今剣を一瞥し、己の剣を握り直した。