彼女の唇に触れたい、と思った。己の唇で、その愛らしい花弁をふさいでしまいたいと。
小狐丸がそのような気分になるときはいつも唐突で、これといった理由は無い。が、今日は普段以上に、その柔らかくも控えめな厚さの温もりに惹かれている。
彼女の手を引いて瞼に唇を寄せると、彼女はくすぐったそうに身を捩る。そのまま目を逸らして遠くへ逃げられてしまいそうになるから、「こちらを向いてくだされ」と腕をつかみ引き留める。ふるふると首を横に振る彼女の頬を両手で挟み、無理矢理視線を合わせる。
主が小狐丸からの求愛を拒まずに両手を広げて受け入れてくれる日は多々あるし、むしろ彼女の方から求めてくれる日もある。が、今日はあまり彼女自身が気乗りしないようで、こうして肌を触れ合わせても、彼女は頬を膨らませるばかりだ、少し気まぐれな主を絆すように、小狐丸の思うる最も優しく穏やかな声で、彼女の耳元で呼びかける。
「ぬしさま、」
「…今日は嫌、です、」
「ぬしさま、」
「まだ今は、日も高いですし・・・、」
「・・・ぬしさま、」
「少しだけ、なら、」
彼女は小狐丸に頼み込まれると弱い。何度も耳に声を吹き込むと、あっさりと懐柔されて頷いてしまう。ほかの者に対してもそうであっては困るが、己にだけそうなのだとわかっているから、余計にこの小さくかわいらしい主への愛おしさが増す。にんまりと目を細めて彼女の唇を親指でなぞると、指の腹に何かが付着した。己の指についた薄桃色を見て、小狐丸は息をのむ。…彼女がつけていた紅の色だ。
普段の彼女は紅を引かずに過ごす日も有るが、紅を引く日はしっかりと色がつくものを使うことが多い。そうして彼女の唇が色づいているときは、小狐丸が一言「良い色ですね」とか「ぬしさまによくお似合いです」とか声をかけるのが常だった。
が、今日の彼女の紅の色は彼女のそのままの唇に近い色をしていたから、紅をつけていることに気がつけなかった。
おそらく、今日の彼女が小狐丸の求めに素直に応じてくれないのも、小狐丸が紅を塗ったことになかなか気がつかぬため、拗ねてしまったせいなのだろう。
そういえば、今朝から彼女が何度もちらちらとこちらに視線を送ってきていたのを思い出し、小狐丸は目を細めた。勿論、彼女の些細な変化に気が付けなかった情けなさや悔しさはある。が、こうして己の反応を見て一喜一憂する彼女が居るということが、嬉しくてたまらないのだ。
「ぬしさま、この紅の色は…」
「…やっと気づいてくれたんですね。」
ずっと気づいてくれないのかと思いました、と頬を膨らます彼女にただただ謝りたいが、どうしても頬が緩むのを抑えきれない。
「申し訳ございませぬ、ぬしさま…どうかこの小狐をお許しくださいますか、」
「…あのね、小狐丸ちゃん、本当はね、怒ってなんかいないんですよ。」
ただ少し、拗ねたふりをしてみたかっただけ。そう言って彼女が小狐丸の頬に触れてゆっくりと唇を近づけてくるから、それよりも早く引き寄せてその薄桃色を塞いでしまった。
重ねた紅が溶けて消えてしまうくらいに。