小狐丸はこれまで刀として生きてきたから、人間の行う行動が理解できないことが頻繁にあった。
その中で口吸いも理解できない行為の中の一つだった。刀剣として過ごしている間、好き合っている者同士が唇を合わせる光景を幾度となく目にしたが、互いの唇に触れたいという人の気持ちが小狐丸にはわからなかった。
人の形になっても、それは変わらない、と小狐丸は思っていた。己を鍛刀した幼い主に親愛の情こそ抱きはしているものの、その唇どころか手に触れたいとも思わない触れるつもりもない…そのはずだった。
刀剣男士というものがそういう性質なのか、小狐丸自身がそうしたいと思ったからか、今ではよくわからない。
だが、幼い主の、差し出す手をとり、声を聞いているうちにそうしたくなって、思わず彼女の額に口付けてしまっていたことは確かだ。
後悔よりも先に、幸福感が訪れ、不思議な麻薬のような行為だとぼんやり思った。
小狐丸が審神者が拒まない限り彼女の頬や耳、額などに事あるごとに口付けるようになったのはそれからだ。理由はわからないが、彼女に触れたい、唇を寄せたいと思う。人の身体を得たということは、考え方まで人に近くなってしまうのだろうか。現に小狐丸は彼女に触れるたびに幸せを感じるし、彼女の肌と己の唇を触れあわせたいと思う。
彼女の手を取り、白く細い指先に唇を寄せる。審神者は少し驚いたような顔をしたものの、すぐに嬉しそうな表情になる。小狐丸が触れるとこの娘はなんとも幸せそうな顔をするのだ。それが小狐丸も嬉しい。
彼女に触れることは、喜び以外の何物でもなかった。
とはいうものの、彼女の唇と己のそれを触れあわせたことはなかった。したくないわけではなかったが、なんとなくそこは彼女が良いというまで触れてはならないような場所のような気がしていた。

あの時から急に、少しだけ遠くが見えるようになった。早く走れるようになり、力も強くなった気がする。小狐丸自身は意識していなかったが、戦闘を重ねるごとに練度というものが徐々に上がっていたようだ。そして、一定の練度になると今まで以上に力を発揮すること後できる特付きというものになる、らしい。
他の刀剣たちや主に祝いの言葉をかけられ、初めてこれがめでたいことなのだと知った。
本丸に戻ってからも、政府からの遣いの管狐・こんのすけに「おめでとうございます、」と声をかけられた。隈取で表情を隠した管狐のことはあまり好いてはいないが、褒められて悪い気がするわけではない。
管狐は主に向き直り、再び口を開く。
「此度の出陣の成果、想像を上回る良いものでした。」
近侍である小狐丸は、主と共に審神者の書斎となっている一間【ひとま】にて、戦果の報告を行い、次の指令を受ける。
戦闘の結果が芳しくない時は、読み取ることが難しいこんのすけの表情からも不機嫌さがにじみ出るときがあるが、今日は逆に機嫌がすこぶる良いようで、時折ふさふさとした毛並みの尻尾がぱたぱたと嬉しそうに揺れている。
「敵の練度の高くない戦場から、徐々に慣らしていこうと考えていましたが、この調子であればもう少し強力な部隊とまみえる可能性がある任務でも問題ないかもしれませんね。」
「強力な、部隊…ですか…。」
「はい。勿論任務を断ることもできます。が、上層部も十分に助力いたしますので、お受けいただけるとこちらとしても非常にありがたい。」
「…ですが…やはり危険と隣り合わせ、ですよね?」
少女は不安げに表情を曇らせる。
とても優しい主だ、と小狐丸は思う。戦果を挙げること・任務を遂行することはあまり重視しておらず、それよりもなによりも、刀剣男士がけがをせずに本丸に戻ることに重きを置いている。彼らが傷つくことを恐れ、悲しみ、涙する。そのような人だ。審神者としての能力が高いから見逃されてはいるものの、彼女のそのような気質が政府側にあまりよく思われていないことは確かだ。
彼女が「少し考えさせてください、」と困ったように笑うから、結局次の任務の詳細は決まらないまま、その日の報告は終わった。それでも、いずれはより高い練度を要求される任務を命じられることはあるだろう。それまでに、この特の付いた身体に慣れなければ、と小狐丸は居住まいを正した。

管狐が立ち去り、小狐丸は主とふたりきりになった。
難しい顔をしてこんのすけから告げられた次の任務やこの先の戦闘のことを憂いているのであろう、優しく幼い主の心を想い、もやもやと複雑な気持ちでいた小狐丸だが、彼女が小狐丸の方に向き直り、柔らかく微笑むから、その気持ちも溶けていく。
「改めて、特付きおめでとうございます、小狐丸ちゃん。」
「はい、ありがとうございますぬしさま、」
「…お祝いをしなければ、ですね。何か欲しいものはありますか?」
何か欲しいもの、と聞かれ、油揚げ・いなり寿司といくつか頭をよぎるものはあったが、そういうものであれば小狐丸に甘い審神者は特付きの時でなくとも準備してくれるだろう、と考えを改める。
「今すぐには決めなくてもよいのですよ」
そう言って審神者は小狐丸の手に触れる。
ーーゆっくり決めてくださいね、
審神者の言葉と重なって何かが小狐丸の脳内に流れ込んできた。
「小狐丸ちゃん?」
ーー大丈夫ですか?
ーー心配です
これは審神者の心の声だろうか。これまでこのようなものが聞こえたことはなかった、これも特付きの影響か。
「大丈夫ですよ、ぬしさま。特付きの身に慣れませぬので多少疲れたようです」
ーーでも、小狐丸ちゃん、
「わかりました、」
「…ええ、ぬしさまも、慣れぬ戦場でお疲れでしょう。ご無理をなさいませぬよう…、」
普段であれば幼い彼女の髪を梳くのが常だ。しかし、伸ばそうとした狐の手は宙を彷徨う。触れてしまえば、また、彼女の心を読んでしまうのだろうか。急に自身の身体に起こり始めた現象を、うまく受け入れることができずにいる。不思議そうな表情の主の目を誤魔化すように、なるべく自然な様子を装って笑う。
彼女に触れるのが怖い、そう思ったのは初めてだ。