風呂場から聞き慣れないゴボゴボという音がして俺は勢いよく顔を上げる。きっとあの子はシャワーだけ浴びて脱衣所から出てくるだろうと勝手に思ってたけど、俺の知らない間に湯船にお湯を溜めていたようだ。前にテレビで見た『酔っ払いを風呂に入れない方が良い』というニュースを思い出し血の気が引く。何だかんだあの子はいまだに自分の裸を見られるのを気にすることとか、このまま入ったら服がびしょ濡れになってしまうこととか、そういうこと今は一切気にしてられない。なりふり構わず、湯気で曇ったアクリル製の扉を勢いよく開ける。
「!?」
案の定ちゃんはぶくぶくと湯船に沈んでいた。自分の迂闊さに内心頭を抱えつつもその細い身体を慌てて引き上げる。辺りにふわふわ浮いてたシャボン玉が虚しく弾けた。
抱き上げた身体に申し訳程度にタオルを引っ掛けて、涼しいリビングに運ぶ。途中脱衣所に丁寧に置かれていた婚約指輪を見て微笑んでしまいそうになったけれど、今はそれどころじゃない。幸い、風呂の中で眠ってしまっただけで水は飲んでいないようで、何度か頬を軽く叩くと酔っ払いの面倒くさい女の子は薄っすらと目を開けた。
目を覚ましたちゃんはいつになく大人しかった。「女子のお風呂中に勝手に入って来るなんてサイテー」とか「服濡れたまま歩いたら床までびしょ濡れになるからちゃんと拭いて!」とかいう感じに怒られるかと思ったが、しおらしく身体を拭いて黙って差し出された服に袖を通している。じっとその様子を見ていると「何?」とちょっと睨まれた。
「『何?』って……ついさっき溺れかけた人間を放置してどっか行くわけないだろ」
「そ、れは、……その、……ごめんなさい、……ありがとう、」
そう言ってちゃんはぺこりと頭を下げる。やけに素直だから、こっちの方が戸惑ってしまう。
「酔いは覚めた?」
「……多分、」
「水飲む?」
「飲む……」
わかった、と頷いて立ち上がろうとすると、ぐい、とシャツの裾を引っ張られる。今度はこっちが「何?」と問いかける番だ。すぐに「なんでもない」と手を離されたけど。なんだかこの目の前の女の子は、いつもと違うことがたくさん起こってちょっと弱気になってるみたいだ。物陰に隠れて怖がっているウサギみたいで、申し訳ないけどなんだか面白い。こういう時何かうまいこと言うことができたらいいんだけど、キッチンでポットから水を注ぎながら「あのさ、」と声をかけても言葉が何も思い浮かばなくて「やっぱ何でもないや」と苦笑いするだけになってしまう。
水を注いだグラスを差し出す。指先が触れる。それがなんだか照れ臭い。手なんか何回も繋いできたのに不思議だ。
しばらくどちらも何も言わない時間が続いた。時計の音だけがカチカチと部屋に響く。と、ちゃんは何か思い出したように「そうだ、」と声を上げる。
「ねえ、さっきって呼んだでしょ……」
「えっ!? ……いや、それは……咄嗟に」
自分でも無意識だった。しどろもどろで上手い言い訳ができずにいる俺を見て、ちゃんはちょっと不満げにふうん、と目を細める。
「……ねえ、もしかしてこーんな面倒くさい女と結婚するって決めなければ良かったって、思ってる?」
「はぁ!?」
突然何を言い出すんだろう。目を瞬く俺を、ちゃんは横目で見て、もう一口水を飲んで、「それとも」と続ける。
「それともやっぱり同情心で私にプロポーズしたの?」
「何言ってんの!? そんなわけないだろ!」
何でわかんないんだよ、俺はこんなにこの子のことが好きなのに。戯れのような憎まれ口だって分かってる。でもこれだけは譲れない。目の前の女の子の肩をがっちり掴んでまっすぐその瞳を見つめた。
「好きだから、大事だから、一緒に居たいから! ちゃんしかいないって思ってるから! お願いだから、俺と結婚してよ!!」
大きい声を出しすぎただろうか、ちゃんは豆鉄砲を食った鳩のような表情をしている。そして再び時計の音が部屋に響く。
しばらくして、ふ、と笑い声を漏らしたのはやっぱりちゃんのほうだった。ふふふ、と嬉しそうに笑って、ハチミツとバターをかけたホットケーキのような表情をする。人がこんなに必死に訴えてるのに! と思うけど、この顔を見たら毒気を抜かれてしまう。
「ありがと、わかってるよ、」
目の前の大好きな女の子は目を細める。ふわふわとした声だ。人見知りで不器用なくせに、目の前の人間と目を合わせることすらできなかったくせに、『ありがとう』の言葉だけは今でもずっとまっすぐだ。ううん、『ありがとう』だけじゃない、まわり道ばかりのこの子は、時々俺でも驚くほどの直球ストレートを豪速球で放ってくる。今ならもう一回、そんなまっすぐな球を打ってくれるような気がして、独りよがりで自分勝手な俺は、「ねえ、返事は? 俺プロポーズしたんだけど」と促すと、ちゃんは照れ隠しのように目をそらす。
「……もう、何回も言わせないでよ、返事は随分前にしてるじゃない……」
それだけ言ってちゃんは座ったまま、カクンと首を下へ向けてすやすやと寝息を立て始めた。……寝息を立て始めた? 「えっ……もしかして、まだ酔ってたの?」という問いかけに、答える者は誰もいない。
酔っ払うとこの子は話の途中でも構わず眠かったら寝てしまうのか、良い勉強になった。そういえばさっきから目が半分座って声も若干眠そうな色になってしまっていたような気がする。介抱するのに必死で気がつかなかった。慌てて手に持ったグラスを回収すると、小さな体はゆっくりとリビングのソファに沈んだ。「まじかよ」という俺の呟きだけが、時計の音とともに虚しく響く。
♥
寒い季節ではないとはいえ、このまま布団もかけずに寝ていたら風邪を引いてしまうだろう。本当に、酔っ払いというものは大変面倒臭い。彼女を抱きかかえて寝室のベッドまで運ぶ。あの頃から随分と時が流れたが、その体躯は痩せっぽちの転校生だった頃からちょっと柔らかくなっただけでほとんど変わりがない。
彼女の穏やかな寝顔を見ているうちにゆるゆると口角が上がっていく。それに気づかないふりをして、俺は頭を抱えて深々とため息をついた。