酒が入る前にお風呂のお湯はりスイッチを押していた自分を心の底から褒めたい。しかも贅沢なことに泡風呂だ。天才だ。そんなふわふわとした湯気とシャボン玉の群れの中、私は深いため息をつく。
湯船の中にいると徐々に意識がはっきりしてきて、様々なことが脳裏をよぎりだす。私の人生の後悔に次ぐ後悔、そしてちょっとだけの幸せ。今日だって、酒の勢いに任せて恥ずかしいことをベラベラ喋ってしまった気がする。もうお嫁に行けない……いくんだけど。
もうすぐ「」は「」じゃなくなる。それがなんだかくすぐったくて心地よくて寂しくて、足元がふわふわしてしまう。
嘘かもしれない、と思いながら左手を掲げると薬指に指輪をはめていた跡がしっかり残っている。酔っ払いの脳みそでもお風呂に入る前に婚約指輪を外すくらいの理性はあったらしい。笑えるくらい現実味がなくて、泣きたくなるくらい本物だ。
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英二の仕事は土日休みで、私の休みは日曜日と平日でどこか一日。そして、私にとって少し不運なことに平日休みの日とかその前日の夜とかは暇してるって、不二くんにはバレてる。そんなものだから、ボリュームたっぷりのパンケーキの店とか、二人で行くと安くなる焼き肉屋とか、一人ではどうも行きづらいような場所に連れ回されてしまう。……不二くん他に友達いないのかな。
勿論、全然やましいことしてるわけではないから、不二くんと出かけたら一から十まで全部英二に報告する。すると彼は時々不二くんの横暴さに爆笑しながらも最終的にはそっかよかったね楽しかったねと笑う。「ちょっとくらい嫉妬してくれたっていいのに」と軽く拗ねると「う〜ん、相手が不二だからなあ」と苦笑いされた。まあ私も不二くんだからなあとは思うんだけど。フリでも良いから妬いてほしい時だってあるんだよ。
結婚式を一週間後に控えた今日も、夕方のまだほんのり外が明るい時間にインターフォンが鳴った。「飲もうよ、明日休みなんでしょ」と色とりどりの缶や瓶がたくさん入ったスーパーのビニール袋を掲げた男を家に入れてしまったのが運の尽き。普段あまり酒を飲もうとはならないから、彼がザルであることも自分が下戸であることも忘れていた。
まだ明るい時間からダラダラするのがなんだか楽しくて、不二くんがふざけて「英二の奥さん」とか「菊丸夫人」とか呼ぶのがなんだか照れ臭くて、そんなに酒に慣れていないのに気づけばひとつふたつと空き缶が増えていく。積み上げられたお手製の花飾りを見て不二くんは何がおかしいのかクスクスと笑った。
「それにしても英二とが結婚だなんて、感慨深いなぁ」
「……不二くんは感慨深いというか、ちょっと面白がってるでしょ」
「あれ、バレてた? あたり。正直聞いたときはしばらく笑いが止まらなかった」
「人の結婚を笑うな!」
「近所迷惑だよ」
まあまあ落ち着いて、と不二くんは梅酒を私のグラスに注ぐ。誰のせいで大声出したと思ってるんだ。
「でもさ、はマリッジブルーとか無いの?」
「マリッジブルー?」
「ほらよく言うじゃないか、結婚直前になって突然この先の生活が不安になったり憂鬱になったりするやつ」
「不安……、不安かぁ……」
少し考えるそぶりをすると「そんなもんなの? はひどいマリッジブルーになってそうだなって思ってた」と言われる。……まあわからなくはないけど。不安がないわけでは無い。むしろ不安だらけだ。愛されてるなんて確信は、無い。自信なんか、無い。なんで彼がこんな面倒くさい私を選んでくれたのかわからない。嫉妬とかもなかなかしてくれないし。式が終わったらあの時文化祭で使った段ボールの大道具たちみたいに、全部いらないものになってしまいそうな気さえする。……考え過ぎかもしれないけど。
だけど、私の方だってそうだ。彼の嫌いなところはたくさんある。誰にでも優しい八方美人なとことか、気がきくのに肝心なところで鈍感なところとか。それでも、彼の好きなところはもっとある。日を追うごとに増えていくような気がする。それに、私は一人では生きられないから、彼がいるから生きてきたみたいなものだから、手放すことなんかできやしないんだ。
「なんというか、不安は不安だけど、それ以上に私、英二のこと好きだから、大丈夫かなって、」
「……なかなか強火な惚気だね」
「惚気だよッ」
酒の席だからとはいえ恥ずかしいことを言いすぎた気がする。頭を抱えて呻きながら机に突っ伏したその時、なんの前触れもなくガチャリとリビングと廊下をつなぐドアが開く。
「あ、英二、お帰り、遅かったね」
不二くんの言葉に私は勢いよく頭を起こす。思いもよらない人物、菊丸英二がそこに立っていた。……いや、今は二人で暮らしているから仕事を終えた彼がここに帰ってくるのは当然なんだけど。さっきの話を聞かれていなかっただろうか、ちょっと、いや、かなり焦る。だってあんなこと思ってるって本人に知られたらそれこそ恥ずかしすぎて死んでしまうかもしれない。対する不二くんは、彼が帰ってくる足音に気がついていたのか、全く驚いていない。知ってたなら言ってくれたらいいのに!
「……いつから飲んでるの、不二」
「ついさっき、かな?」
そういえば、酒は弱いんだからあまり飲むなと英二に口を酸っぱくして言われていたことを忘れていた。ご立腹の様子の英二はちょっとだけ怒りをにじませた声色で不二くんに問いかけている。対する不二くんはクスクスと楽しそうに笑って答えるから、なんだか暖簾に腕押しみたいだ。マイペースな友人は相手の心の機微など一切気にすることなく、持ってきたビニール袋をガサガサ漁り、楽しそうに酒瓶とおつまみを取り出す。
「あ、英二芋焼酎開けていい?」
「もう不二は早く帰って! ほら、ちゃんは空き缶片付けて!!」
「やだぁ、」
色とりどりの缶を片付け始めた英二を嘲笑うように不二くんは芋焼酎をグラスに注ぐ。未ださっき自分が口走った恥ずかしい台詞が脳を駆け巡っている私は、照れ隠しに子供のように首を左右に振ってハッピーターンをチェック模様に見立てて並べた。
英二が呆れたようなため息をつく。幸せが逃げちゃうよって密かに思う。そうこうしているうちにアルコールが身体を巡って徐々に眠くなってきた。瞼がゆっくりと落ちてくる。
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あの後眠気からくる苛立ちと酒の勢いにまかせて英二にわけのわからない突っかかり方をしてしまった。「英二は、私が嫌いなんだ」とか「嫌いなのになんで結婚したの? 同情心?」とか、今考えると失礼極まりない台詞だ。嘘をつくような人じゃないってわかってるのに。本当に私のこと好きって思って決断してくれたんだとは思ってるのに。全然可愛くないことを言ってしまった。ものすごく面倒くさい女だという自覚はある。かなりある。
とはいえ、これから先、十年後、二十年後、そのままかどうかはわからない。もしかしたら飽きられてしまうかもしれないし。不二くんには大丈夫とは言ったものの、不安なんだ、ものすごく。なんといっても私はものすごく面倒くさい女だから。
眠気と酔っ払いの最中で聞いた「はめちゃくちゃ良い女ってわけじゃないよね、甘めに採点して中の上くらいだ」という言葉を思い出す。私も失礼だけど、不二くんも相当失礼だ。少し腹が立ってきた。……でも、悔しいことに、これは不二くんが正しい。素直な良い女になんて、なれる気がしないもん。私という人間ときたら、あの時ああ言えばよかったこう言えばよかったって、過去を振り返って頭を悩ますことばかりだ。
私の悩み事や考え事がどんどん増えていくのに比例するように、フレッシュデイジーの香りと銘打たれた入浴剤はもくもくと泡を生み出し続ける。シャボン玉って、なんだか私たちみたいだ、屋根まで飛んで壊れて消えてしまいそう、とかポエムみたいなことを思ってしまうのも、酔いが回ってるからかな。
軽やかな花の香りが心地良い。ゆらゆら揺れるお湯に身を任せて、ぐらぐらぶくぶく、沈んでいく。