Naturesince.2010.07.04

Why did you marry me?

空飛ぶタンポポ

少しだけで良いから、嫌な奴な自分を卒業したくて、これまでとは違う『何か』を手にしたくて、だから文化祭実行委員に立候補した。なんて単純で安直なんだろうと自分でも思う。肩書きだけでどうにかなるならとっくの昔にどうにかなってる。けど、担任教師の立候補者を募る声に従い、縋るような気持ちで恐る恐る右手を挙げたことは間違っていなかったと、そう思いたいから、気合いを入れるように頬をペチンッと叩いた。

 さて、私の好きな彼はというと、相変わらず明るくて、人気者で、お調子者で、そして誰にでも優しい。そりゃそうだ。元来この人はこういう気質なのだろう。
ただ、中学三年の一年間、ずっと同じ教室にいたせいか中学一、二年生のクラスが別々だった頃に比べると随分と話す機会が増えたし、こちらから話しかけやすくもなった。お願い事をするときだけちゃん、と下の名前で呼ばれ始めたのはこの頃だ。それはもう、私にとって大事件だった。まあ、平静を装ってはいたけれど。
勿論、「なんで文化祭実行委員なんかに立候補したの?」と聞かれた時も「実行委員なら劇に出たりお店で接客したりしなくていいじゃない」となんでもない風を装って答えた。勿論、嘘。本当は心臓が口から飛び出しそうだし、最初から最後まで不安だらけだ。それでも、明るくて人気者で誰にでも優しい彼にちょっとでも釣り合う自分になりたくて、頑張って足掻いて背伸びしてみてるんだよ。このことは絶対口には出さないけど。必死で足を動かしてるけど水面では優雅な白鳥みたいに見えてたら良いのにって、密かに思った。

 第一回文化祭会議はゴールデンウィークが終わってすぐのテストの直前に行われた。今年のうちのクラスの出し物は演劇だ。演目は白雪姫。舞台装置を作ったり練習したりするのは大変そうだけど、図書館で台本を借りることができるし、一年生の出し物としては妥当なところだと思う。その辺りは特に異論もなくサクサクと話し合いは進んだけれどら問題はなんといっても配役だ。セリフの少ない七人の小人たちは兎も角、白雪姫と王子はなかなか決まらない。
「誰が立候補する人は居ませんか? ……推薦でも良いんだけど」
今までに出したことがないくらい大きな声で、教壇から問いかけるけれど、誰一人として手が上がらない。……と、不意にこれまでの沈黙を破るかのように、一人の人物がスッと手を挙げた。不二くんだ。王子役にでも立候補するつもりなのかな。不二くんが王子役だったら白雪姫は取り合いになってしまうかもしれない、と思いつつ「何? 不二くん、立候補?」と問いかける。
「ううん、推薦。王子は英二が良いんじゃないかな?」
は? という問いかけをなんとか飲み込んだ。「いいんじゃない?」という返しはさっきよりも随分と小声になってしまった。黒板の王子役の文字の下に候補として彼の名前を書き入れる。少し……いや、すごく、手が震えた。彼が王子なら白雪姫役は誰になるんだろうなんて、想像したくない。私は実行委員との掛け持ちになってしまうからまず無理だろう。不二くんは私が彼のこと好きなこと知ってるくせに、なんて意地悪なんだろう! と、悶々と悩んでいると不二くんの斜め後ろの席の人間がバッと勢いよく手を挙げる。……菊丸英二、本人だ。
「まって、まって! そーいう王子とかは不二の方が適任だって俺は思うんだけど!」
「僕は白雪姫やるよ、主役だし」
当然だろう? というふうに不二くんは首をかしげる。英二は「……白雪姫か〜〜」と肯定とも否定ともつかない声を上げ、私は不二くんならアリかなあとぼんやり思いながら黒板に名前を書き込む。クラスの女の子たちも「不二くんが白雪姫!?」「アリ! めっちゃアリ!」「絶対似合う〜!」とノリノリだ。かくして、白雪姫役・不二周助、王子役・菊丸英二という謎の配役の白雪姫になってしまったわけだけど、まあ文化祭実行委員以上の不安要素は何も無いでしょう。こうなればもう当たって砕けろだ。

 衣装担当達の頑張りのおかげで、舞台に立つメンバーは思ったよりも早く本番用の衣装の試着をすることになった。
白雪姫の衣装は某ファストファッションチェーンで購入した柔らかい素材で裾の長いパフスリーブのワンピースに、細かい刺繍とビジューがたっぷりついたボレロ。森で小人たちと暮らすお姫様にぴったりだ。一見これで完成のようにも見えるが、このままだと歩きづらいとかで裾の上げ下ろしやらそで丈の調整やらでなんだか大変そうだ。不二くんは小柄で線が細いからある程度は着こなせるだろうと思っていたけれど、予想以上に似合っていて感心してしまう。
対する王子の衣装はグレーのスラックスに紺色のベスト。それに革っぽい素材のブーツを履いてマントを羽織ればそれなりに王子っぽく見える。だから、なんというか、目を奪われてしまったんだ、彼に。別に彼の見た目に惹かれてずっと好きでいるわけではない、けれど、好きな人が王子様の格好してたら女の子はときめいてしまうものでしょう?
「どしたの?」
ずっと見ていることに気づかれたのか、彼が不思議そうにこちらの顔を覗き込んでくる。
「何でもない!」
そう返して勢いよく首を左右に振ってごまかす。なんだかすごくぎこちない仕草になってしまって、ちょっと前の自分に戻ってしまったみたいだ。そう感じるのは王子様の姿の彼が出会ったばかりの頃何もわからない私の手を引いてくれたあの時のようにキラキラ素敵に見えるからかな。……いや、私の好きな人はいつだってキラキラしてていつだって素敵なんだけど。実際に言葉にしないだけ。

 トントン拍子で進んだ衣装作りに対して、難航したのは演技の稽古だ。なんといっても主役があの不二くんだから、台本の読み合わせの時から文化祭実行委員である私は頭を抱えていた。
「これは見事なフジリンゴだね。せっかくだからリンゴ売りさんも食べてみなよ」
「まって、不二くん、まって、お妃にリンゴ食べさせようとしないで、自分で食べて」
「だって僕が食べたら白雪姫が死んじゃうじゃないか」
「一回白雪姫が死なないと白雪姫のお話じゃなくなっちゃうの!」
「物騒だなあ」
「なんでも良いからリンゴ食べて! ねっ!」
前から自由極まりない人だと思ってたけど、ここまで自由だとは思わなかった。助けを求めて思わず英二の顔を見てしまうと、なぜか思いきり笑われてしまう。なんで笑うのよ。
「不二くんは私の手に負えない……」
「俺の手にも負えない」
「何とかしてよ! 王子でしょ!」
「王子にもできることとできないことがあるんだよ」
なんとも腑に落ちないと言う顔をしていたら不二くんに「まあまあ」と宥められる。楽しくて仕方ないと言った表情をしている彼は絶対面白がってる。
「いいじゃないか、魔女を倒して、『なんで強くて美しい姫なんだ』って言いながら王子が出てきて、それでハッピーエンドだよ」
「だから台本を変えないで!」
頭をかきむしり「も〜〜ッ」と声を上げてしまう。こんな困ったことばかりだけど、楽しくないと言ったら嘘になる。自分の役割がある文化祭って新鮮で刺激的だ。

 高校になって最初の夏休みは想像していたよりずっと忙しくて毎日目が回りそうだった。課外授業、課外授業、課外授業、そして劇のリハーサル、実行委員の書類仕事。これまで帰宅部だったから、夏休みは宿題以外にやることがない暇人になってしまっていたが、今年はそうもいかない。部活をしている人間は練習、大会の合間を縫って文化祭の準備にも参加してくれているから本当に頭が上がらない。菊丸英二もそうだ。それなりに課外授業を受講して、部活にはきっちり参加して、劇の練習にも休まず来てくれている。加えて、私が夜遅くまで教室に残って小道具作りの仕上げとか会計処理とかをしているからどことなく気にしてくれているみたいで、部活が終わったら必ず教室に顔を出してくれて終わる頃になると「送るよ」と言ってくれる。「別にそういうかっこつけみたいなのしなくていいから」と返してしまう素直じゃない自分が嫌いだ。そういうこと誰にでも言ってるんじゃないの、と思ってしまう自分が。それでもやっぱり彼は優しいから、素直じゃない物言いをする私を「まあまあ、」と宥めて一緒に帰ってくれる。……私が自惚れてしまうのは、君のせいだよ。優しい君が好きだ。大好きだ。

 八月も後半になると、夏休みのはじめの頃よりちょっとだけ日が沈むのが早くなる。ほんのり薄暗くなりかけた窓の外のグラウンドではテニス部が整列してミーティングしている様子が見える。そろそろ彼がこちらに来る頃だろうか、だなんて、期待してしまっている自分に気がついて、少し苦笑した。半分くらいレシートを片付けて、思い切り伸びをして、もう一度プリントと向かい合った所で、ガラリと引き戸が開いた。と、そこには見慣れた外ハネのシルエット。普段なら私以外にも何人か残って小道具作りをしたり、宿題を片付けたりしているから、こんなの初めてだ。
「おつかれー、今日も書類仕事?」
「うん、英二も練習お疲れ様」
ありがと、と言いながら彼は横に座る。同じクラスじゃなかった二年間に比べるとずいぶん話すようになった。でもまだ、あの時不二くんに聞かれた「結局二人は付き合ってるの?」に「そうだよ」と答えることはできない。なんてもどかしいんだろう。手繰り寄せようとしても、その糸は絡まり合ってごちゃごちゃになってしまっているから、解くのに時間がかかってしまう。気長に、慎重に。私にしてはよくやっている方だと思う。それでも、彼が側にいると平静じゃいられなくなるのは確かで、今もどこまで電卓を叩いたか忘れてしまった。レシートを見直して、プリントをまた指でなぞる。……集中できない。
「何時に終わりそう?」
「……これ、一旦明日までに生徒会に出しておかないとだし、もうちょっとかかるから、先に帰ってても良いよ、」
彼の問いに、チラリと時計を見て答える。嘘つき。本当は一緒に帰りたいくせに。そんな私の素直じゃない言葉に気づいているのかいないのか、彼は「んちのおばさんに、遅くなりそうだったら一緒に帰ってって言われてるんだ〜〜だから待つよ」と笑う。「……そう、」とだけ返してまた書類に向き直る。うちのお母さんに言われたから残ってるんだ、嬉しい、けど、ちょっと複雑。なんと面倒臭いんだろう、人を好きでいるという心は。
だから、彼が急に「その代わり、ちゃんにお願いがあります」と口にした時、うまく反応ができなかった。表情は笑顔だけれど声色は真剣だ。思わず姿勢を正してしまう。
「なに、どうしたの改まって」
「俺さ、不二が適当に改変した台本でしか練習してこなかったからさ、もし、万が一、本番で不二が正しい台本に沿ってやってきたら対応できる気がしないんだよね」
「……そうね」
「だからさ、それ終わったらちょっとだけ練習相手になってくれない? 本当の白雪姫の」
予想外のお願い事だった。ジュースを奢ってほしいとか、アイスが食べたいとかだったら簡単に頷いていただろう。そんなに難しい話じゃない。でも、白雪姫の練習相手だなんて。彼は王子役だから、それってつまり、そういうことでしょう? それでも、こんなこと多分二度とないから、これはきっとチャンスだから、私はゆっくりと頷く。
「……いいけど」
「えっ!? 本当に良いの!?」
彼の方から言い出したくせに、ものすごく驚いたような表情をするから、少し笑ってしまった。ダメだって言われるとでも思ってたんだろうか。
「練習なんでしょ? 私、台本読むだけだし、下手くそだけど、それでも良いなら」
今年の夏は今年が最後だ。ならば、できることは全部やってしまおう。そう密かに思いながら、私は鞄の中から劇の台本を取り出した。

 王子が登場するのは物語の終盤だ。毒リンゴを食べて永遠の眠りについてしまった白雪姫を一目見て、彼女を城に連れて帰ろうと決める。何度も台本を読み直したからよく覚えている。跪いて求婚する王子様を見て、目を覚ました白雪姫は何を思ったのだろう。私はお姫様じゃないからよくわからない。
「いつでもどうぞ」
最初のセリフを促すと、彼は少し緊張した表情で小さく息を吸い込んだ。
「『おお、何と美しい姫なのでしょう、まるで眠っているようだ』」
「『王子は一目で恋に落ちました。そして周りの小人たちに』……」
「ちょっと待って、」
不意に英二のストップが入る。「何?」と首をかしげると少し不服そうに彼は唇を尖らせた。
が白雪姫役やってくれるんじゃないの?」
「……だって、今この場は二人しかいないんだから、王子以外は全部私がやらないと話が先に進まないじゃない」
「いや、まあ、そうなんだけど、さ」
そう、王子と姫だけでは物語は先に進まない。そういうものなのだ。密かに姫をやる気満々だったけれど、これは致し方ない。「ちゃんとこの後白雪姫の台詞も言うから、安心して」ともう一度台本を構えるとまだちょっと不満げだけど「……ありがと」と彼も元の立ち位置に戻る。「じゃあ続き読むね」と準備を整えたところで、再び彼は「まって!」と声を上げて静止した。
「……今度は何?」
「あのさ、雰囲気作りのためにここに横になってくれない?」
この中で読んでよナレーションも小人の台詞も! と言って大道具の一つである段ボール製のガラスの棺を示すから、なんだかおかしくなってしまって「はぁ?」と言いながら必死で笑いをこらえた。
「お願い! このままだと不二この棺使わないからもったいないじゃん!」
「……まあ、いいけど」
手を合わせて頭を下げる彼を見て、ゆっくり頷く。仕方なしにやっている、というフリをしてるけど、本当はちょっとだけワクワクしてるんだ。言わないし、顔にも出さないけど。

 台本の内容はほぼ丸暗記しているから、棺に入っていてもスラスラと台詞が出てくる。小人の泣き声やナレーションが棺の中から聞こえてくるのはシュールな光景だろうけど、まあ仕方がない。そうこうしているうちに、あのシーンがやってくる。私は本物の白雪姫みたいに目を閉じて眠ってなんかいないから、彼が棺の横に跪く姿がよく見える。視線がかち合ってしまう。目をそらすことも、瞬きすることもできない。
「……『そうして王子は跪き、姫にキスを』……」
「……やっぱやーめた!」
「え?」
決定的なシーンの直前で、彼は目をそらし、勢いよく立ち上がった。思わず目を瞬いてしまう。『王子様』はこちらを見ることなくぺらぺらと喋り続ける。
「不二のことだからここまで台本通りにやることないでしょ! ありがと、!」
「……あ、うん、……本番頑張って、」
「もち!」
こちらを見ずとも力強く頷く彼を見て、少しほっとしてしまった。だって、あのまま『お芝居』を続けていたらきっと……。それは何だか嫌なんだ。そういうことは『お芝居』の中の『王子様』と『お姫様』としてじゃなくて、『菊丸英二』と『』としてやりたいのだ。……ちょっとだけ、残念なような気もするけど、それでも最後まで『お芝居』を続けてしまっていたら、きっと私は後悔しただろう。そもそも、彼は王子じゃないから跪いて求婚なんかしないし、私は白雪姫じゃないからリンゴなんかで死んだりしない。目の前に好きな人がいるときは、棺の中で目を閉じたりせずに、その姿をずっと見ていたいよ。

 帰り道はお互い一切さっきの『お芝居』のことは話さなかった。近所のコンビニの新作のお菓子の話とか、課外授業で先生が放ったギャグの話とか、体育館裏によくやって来る猫の話とか、他愛のない話が生まれては消えていく。そうこうしてる間に、夏は過ぎていく。早く駆け足で追い越してしまいたい、この蒸し暑さも、汗で額に張り付く前髪も、好きすぎていつだって空回りするこの想いも、全部。

 文化祭は九月の二週目のまだ暑さが残るよく晴れた日に賑やかに開催された。体育館のステージ枠は人の入りが良さそうな時間帯は全て三年生に取られてしまっていて、私たち一年生は朝一番の人がまばらな時間帯を充てがわれた。だからといって、普段の練習とやることが変わるわけではないけれど。不二くんは最後まで正しい台本で演じなかったし、小道具のリンゴの形をしたボールは、白雪姫がどこからともなく取り出したラケットによって客席の後ろの方へ勢いよく飛んで行った。もちろん、白雪姫が横たわる予定だった棺はただの背景となってしまった。「ナイスサーブ不二!」じゃないんだよ、王子。白雪姫はめちゃくちゃだ。マイクやスピーカーをステージに設置してなくてよかった。そんなことしてたら、いつの間にか壊れてしまっていたかもしれない。でも、なんだかみんな楽しそうだったし、飛んで行ったリンゴをキャッチした中等部男子テニス部の見覚えがある子たち(確か桃城くんと荒井くんだ)は「ホームランボールみたいだな」と嬉しそうだったし、それで良いかな。私たちの出番が終わった後、背の高い男性二人と関西弁の女性二人の四人組が「さっきの劇めっちゃ良かったやん!」「白雪姫イケメンやったなあ」と話している声が聞こえたたから、たぶんきっと面白かったんだろう、と思いたい。劇は一応、成功、ということで。
勿論、自分たちの劇の出番が終わった後も文化祭実行委員の仕事は残っている。舞台上を華やかに飾り付けていた大道具や大量の衣装を大急ぎで教室に運ぶ。あんなに時間をかけて作り上げたものたちなのに、終わったらあっけなくただの段ボールになってしまう。きっとこの後、この段ボール達は焼却炉に連れて行かれてしまう。チクンと小さく心臓が痛む。こんな寂しい気持ちも含めて、文化祭を楽しむということなのかな。
とはいえ、いつまでも感傷に浸ってはいられない。片付けは文化祭の翌日でも問題ないが、実行委員は生徒会のイベントや一般客の受付の手伝いもやらなければならないのだ。気が休まることはない。青学は中学の頃の文化祭もなかなかの規模のものだったが、高校の文化祭はそれ以上だ。見たことのない制服やパンフレットを片手に彷徨う大学生も多く目に入る。受付ブースで落とし物の管理をしていると、他校生の仲良さげなカップルがお互いの黒髪の一つ結びと茶髪のポニーテールに中庭のバザーで購入したのであろうお揃いの髪飾りを付け合っている姿が見えてちょっと微笑んでしまった。……と、同時にこんなに長い付き合いなのに好きな彼とお揃いのものを何一つ持っていないことに気がついて少し落ち込む。……いや、「付き合ってるの?」という問いにイエスと答えられないような関係だから、そんなもの持っていなくても不思議ではないのだけれど。でも、今日は少しだけ、そういうワガママを言っても許されるような、受け入れてもらえそうな、そんな気がするんだ。声に出して言えるかな、実行委員の仕事たくさん頑張ったからちょっとくらい良いよね? そんな風にたくさん言い訳を積み重ねないと、一歩を踏み出すことができない自分の意志の弱さに苦笑してしまう。でも、今日はそうするんだ、そうしたいんだ、絶対。拳を強く握りしめて、優しい彼の顔を脳裏に浮かべながら、小さく深呼吸した。

 当日の文化祭実行委員の仕事がようやく終わったのは、クラス単位の出し物が全部終わってエンディングの時間となってからだった。司会担当の先輩にマイクを手渡して、ほっと小さく溜め息をつく。なんだか、肩の力が抜けた気分だ。まだ雑務は色々残ってはいるけど、とりあえず一段落だ。ゲストのロックバンドが登場してライブ会場みたいになった体育館はものすごく盛り上がっていて、外に居ても音楽や歓声が聞こえてきそうだ。そんなステージの様子を最後まで見ていても良かったんだけど、なんとなく、彼はここではなく別の場所に居るような、そんな気がして、そっと喧騒から離れる。正門へ向かう体格の良い両親の手を引く線の細い少年とか、坊主頭のサラリーマンとツインテールの中学生の二人組とかとすれ違い「気をつけてお帰りください、」とにこやかに挨拶しながら廊下を早歩きで進む。

 賑やかな音楽が教室練の廊下まで聞こえてくる。だけど、校舎の中は誰もいないみたいで、なんだか異世界に来てしまったかのような不思議な気分だ。英二を探す前にひとまず自分の荷物を整理しようと教室の引き戸を開くと、私の席には先客が一人。見覚えのある外ハネが我が物顔で座っていた。体育館には居ない気がするとは思っていたけど、まさか教室にひとりでいるとは思わなかった。「やっほー」と片手を上げる彼を見て、思わず目を瞬いてしまう。「え、ずっと一人で居たの?」と聞くと、俺だって一人でいるときくらいあるよ、という風な表情をされた。まあ、そりゃそうなんだけど。
「英二は不二くんとかと一緒なのかと思ってた。ほら、外部受験したテニス部の子も来てるんでしょ?」
「ううん、大石の学校も文化祭だから今日は来てない。不二は裕太が来てるから大はしゃぎで学校案内してたよ。やっぱり高校から青学に戻ってきて欲しいんだって」
「……そう、」
やっぱり最初にダブルスパートナーの名前が出てくるんだ、という想いが少し頭をよぎるが、小さく深呼吸してその気持ちを振り払い、彼の目を見る。かちりと視線が噛み合う。今までの私だったらそっと目をそらしてしまうところだけど、今日は、今日からは、こんなにも私は君のことを見てるんだぞって伝えたいから、まっすぐに、見つめる。
は? 用事終わった?」
「一応。あとは来週最終的な精算書出したらおしまい」
「そっか、おつかれ、」
「ありがと、」
少し微笑んで、英二が引いてくれた椅子に座る。お互い何も言わなかった。彼は静かなタイプではないし、沈黙が続かないように気を使ってお喋りしてくれるタイプのはずなのに、二人でいると時折こういう空気になってしまう。気まずくはないけど、なんだか変な気分になる。
「……どうしたの、この前から英二なんか変だよ」
「……変なのはもだろ」
たぶんお互いどこか変なんだ。もう一度、彼の方を見ると目の前の好きな人のいつもの笑顔は少し控えめで、どこかそわそわしているみたいで、私まで妙に緊張してしまう。あの時、二人きりで白雪姫の練習をした時と同じだ。もう彼は王子ではないし、私も姫ではないから、ナレーションの声が二人の歩みを進めてくれたりはしないけど。
そうやってふわふわとした気持ちでいると、ずっと静かだった英二が「あのさ、」とゆっくり口を開いた。
「あのさ、笑わないで聞いてくれる?」
「笑ったら?」
「ちょっと怒る」
「なにそれ」
ちょっと吹き出すと「笑うなって言ったじゃん!」とむくれるからそれがますます面白くて、「ごめんごめん、何?」と彼の目を覗き込む。
「なんかさ、いつもの俺じゃないみたいなんだ」
「……ふうん、」
「なんか今、これまでにないくらい緊張して、ドキドキしてる。と話してるだけなのに」
「劇の直前より?」
「うん」
「……試合の前より?」
「……俺試合の前は緊張とかしないタイプだから」
「……そう、」
それだけ言って、私はちょっとだけ目を伏せる。君はきっと、なんで試合のこと言われてるのか分からないんでしょうね。そうしなきゃ彼が真剣な目でこっちを観てくれた時に絶対に気がつけないって、そう思ったから、ずっと彼のことを見ていた。きっと今は、彼が今までで一番真剣な目でこちらを見てくれている、かけがえのない唯一無二の時間だ。急に目を伏せて静かになってしまったから、が怒ったと思われてしまったかもしれない、違う、怒ってるんじゃなくて、君への想いを噛み締めてるだけなんだよって、伝えたくて、もう一度彼の方を向いた。上履きのつま先を見ている彼と視線が重なることはないけど、夕日に照らされた横顔がこれまで見たことがないほど格好良くて、少し見惚れてしまう。
「おかしいよね、今まで何度もこれくらいの距離でと会話してきたのに、」
「……ふぅん、……私はいっつも英二と話すときドキドキしてたけど」
「……えっ?」
一瞬時が止まる。そういうことだよ、菊丸英二。……君は自惚れても良いんだよ。
「いっつも?」
「いっつも、」
「どれくらい前から?」
「……ずーっと前」
「……はは、ずるいや、」
泣きそうな顔で髪の毛をくしゃくしゃにかき回す彼の姿を見ていたらなんだかじっとしていられなくなって、思わず椅子を引いて立ち上がる。
「? 、……、」
彼が私の名前を呼ぶ前に、ずるいのはそっちだ、と言う代わりに、少し屈んで彼の頬に口付けた。こっちがドキドキしてたぶんだけ、全部返してやろう。私が感じてたドキドキの倍くらい、いや、それよりもっとたくさん、この人をドキドキさせたい、させてやる。
「……ねぇ、ドキドキした?」
嗚呼、とはいえ、私の左胸も五月蝿いほどに高鳴って、頭の先からつま先まで血液を送り続けている。心臓の音で賑やかな祭りの喧騒が霞んで聞こえなくなるほどに、君が好きだ。