Naturesince.2010.07.04

Why did you marry me?

跳ねるツバキ

 そもそも菊丸英二という男は誰にでも優しく明るく接する、コミュニケーション能力の塊みたいな人物だった。
小学四年生で神奈川から転校してきた私に真っ先に声をかけてきてくれたのも、なかなかクラスメイトの輪に入れずにいる私の手を引いて人と話す機会を作ってくれたのも、彼だ。人見知りで口下手な私にとってそんな彼はまるでヒーローみたいで、密かに憧れてたし尊敬していた。

 それは私が転校してきてからぐるりと季節が巡り、一年目の冬休みが終わった直後のことだった。光丘小学校は毎回長期休みの後、次の長期休みまでの予定表が配られる。そこに書かれた初めて見る学校行事の名前に私は首をかしげる。光丘小学校は学校独自の行事というものがいくつかあって、こんなことはこれまでも幾度かあった。登下校を共にするご近所さんの菊丸英二に問いかける。
存在するのが当たり前である行事を説明するのがなんだか面白いらしく、毎回楽しそうに説明してくれたし、私もその一つ一つが物珍しくて興味津々に聞いていた。が、今回は私にとってはそうもいかないらしい。だって、次の行事は……。
「ねえ、1月末に書いてある『縄跳び記録大会』って何?」
「ええっ、神奈川の学校って縄跳び記録大会無いの!?」
「無い、というか学校で縄跳びとかやったことないかも……」
どんなに記憶を手繰り寄せても、学校に縄跳びを持っていった思い出ががない。……そもそも、我が家に縄跳びの縄なんてあっただろうか? そんな私を見て彼は驚いたように目を見開く。
「まじで!? 毎年冬に全校で集まって縄跳びやる日があるんだよ、そっかぁ、これってうちの学校だけなんだ、」
「毎年……ってじゃあ今年も?」
「勿論、」
彼は「行事カレンダーにも書いてあるしね」と頷く。これはまずいことになった。運動会は運動音痴なりになんとかなった。マラソンも順位は兎も角まあ乗り切れた。百人一首はどちらかといえば得意分野だということを転校してきて初めて知れた。それでも今回はそう簡単にはいかないだろうという不思議な確信がある。
「あの、あのね……」
「ん?」
歯切れの悪い私のセリフに彼は少し屈んで耳を傾ける。距離が近い。それでもそんな大したことを言うわけではないから、思わず小声になってしまう。
「……私、多分、縄跳びできない」
「うそでしょ」
まさに青天の霹靂だった。なにせ記憶のある限り、縄跳びの縄すら握ったことがないのだ。自分がリズムよく縄跳びしてる未来が見えない。

 その日の帰り道、早速縄跳びの縄を買いに行った。駄菓子屋の隅で売られているおもちゃのような安くて軽い縄を買おうとしたら彼に止められる。それでは初心者だと跳びづらいらしい。柔らかなロープのような紐のものを勧められた。
「一、二年生の時はみんなこれ使うんだ。引っかかって足に当たってもあんまり痛くないし。……普通は低学年でみんな跳べるようになって軽い縄とかちょっと金属が入ってるかっこいい縄とかに買い換えるんだけど……」
「……そうみたいね、」
見せてもらった彼の私物に比べて、手に取った縄はずいぶんと野暮ったい。ちょっとだけ、いや、かなり、落ち込む。そんな私を気にしてくれているのか、彼はちょっとだけ「うーん」と考える素振りをしてから「そうだ!」と手を叩いた。
「そんじゃ、俺が跳び方教えてあげるよ!」
「え、……え!?」
思いもよらない急な申し出に目を瞬く。「名案じゃん!」と嬉しそうにする彼に反論する術を私は知らない。
「明日から朝練! 6時半に迎えに行くかんね! 寝坊すんなよ〜!」
「ちょ、待って!」
「じゃ、そういうわけだから、また明日!」
話をしているうちにいつのまにか家の近くにたどり着いていた。言いたいことだけ言って、彼は手を振って自宅へ戻っていく。「うそでしょ……」と密かに漏れた私の呟きは誰にも拾われることなく消えた。

 結構律儀な彼は、宣言通り、翌日の朝早い時間に玄関のインターフォンを鳴らしてきた。早起きが得意とはとても言い難いタイプの私は、いつもより早く布団から出てきたことを家族に驚かれながらもスニーカーの紐を結ぶ。
朝の公園はしんと静まり返っていて、まるで二人だけの世界に来たみたいだった。学校のすぐ近くのそこは、放課後は日が暮れるまで遊んでいたい子供達で溢れかえっているが、流石にこの時間は人っ子ひとり居ない。土を踏みしめるザクザクという音だけが辺りに響く。ブランコの裏の少しだけ土が柔らかいあたりにたどり着くと、彼は振り返って「じゃ、とりあえずどれだけできるのかやってみて」と笑う。
「だ、だから、全然、一回も、縄跳びなんかしたことないんだって!」
「大丈夫、まずはゆっくり回すだけでも良いから!」
言われるままに、縄をゆっくりと回す。そして、ゆっくり『跳び越える』。たったそれだけ。難しいことなんかひとつもやってない。それでも彼は嬉しそうな顔をして「できるじゃん」と親指をあげた。
彼は、なんというか、とても褒め上手だった。そして、「ジャンプするときは足は揃えて」「足元は見ないで」「二重跳びもできるんじゃない!? やってみようよ!」とアドバイスも的確だ。……流石に二重跳びは無理だったけど。だから、みんなの人気者なんだろうな、とぼんやり思う。気づいたら私は縄を『跳び越える』ではなく『跳ぶ』ことができるようになっていた。まだ縄の回し方はゆっくりだし、そんなに長い時間跳びつづけることができるわけじゃないけど。
「ありがと、縄跳びちゃんと跳べたの、はじめて」
「よかった! 跳び方忘れんなよ! 明日もやるから!」
縄を回しながらぴょんと跳ねたら少しだけ遠くが見えた気がしたことは、多分一生忘れない。

 次の日も、その次の日も、彼は朝早くに迎えに来た。暇なの? という憎まれ口はそっと飲み込んだ。暇じゃないから朝早起きしてまでこうやって付き合ってくれてるんだって、言われなくてもわかっている。
これまでに何度足を縄にぶつけたことか。彼の言う通り、柔らかい素材の縄を選んで良かった。朝練の後は、遠くから聞こえる始業15分前のチャイムで私たちは公園を後にする。ここからゆっくり歩いても余裕で間に合うから、有り難い話だ。
一週間とちょっと、練習を続けて、なんとなく縄跳びらしくなってきたそんな頃、縄を片付けて落ち着いたところで彼が「そうだ!」と声を上げた。「何?」とそちらを見るといつも以上にニコニコと嬉しそうな顔をしている。
「ねえ、今日は俺、お守り持ってきたんだ〜〜、にあげる」
「お守り?」
「ほいっ」
差し出されたのは、見覚えのある温かみのある色のパッケージ。マフラーをしたウサギが描かれたそれは私が知っているお守りとは似ても似つかないものだった。
「なんだ、ただのカイロじゃない」
「『ただの』じゃないよ!」
彼に促されるままカイロの入ったビニールの裏面を見る。ごちゃっとしたイラストと共に、彼の字でメッセージが書かれている。そういう細かいことまで気がきくところ、前から少しずつ垣間見えていたけど、実際こうやって形として手渡されると胸がキュッとして喉の奥が熱くなってしまう。
「これ持ってれば、はだいじょーぶだよ」
そう言って彼は楽しそうに笑う。このように、いつだって彼は優しい。同じくらい私も優しくできてるかな、いつだって自分のことにいっぱいいっぱいで、そこまで気が回らない。彼からもらった沢山を大事に返せる自分になりたくて、カバンの中にカイロを大事にしまってもう一度グリップを握る。

 縄跳び記録大会の当日は、はらはらと雪が空から落ちてくるとても寒い日だった。朝練でしっかり身体を暖めていても、私の席は教室の中でも暖房から遠い席だからすぐに手の先足の先まで冷たくなってしまうから、家から持ってきた例のカイロをぎゅっと握りしめた。包み紙のビニールは家の勉強机の引き出しに大事にしまってある。多分一生捨てられない。
光丘小学校の縄跳び記録大会のルールは単純だ。3分間で何回跳べてたかを記録する、時間が来るまでただひたすら跳ぶ。縄に足が引っかかった時も跳び続けて構わないが、連続した回数分しか記録されないし、後から引っかかった回数分記録から引かれてしまう。それだけだけど、結構シビアだ。普通の跳び方すらできなかった去年の私だったら、たぶん記録は0。もしかしたらマイナスだったかもしれない。それでも今はちょっとだけ自信があるのは、斜め前の席の彼が振り返ってニッと笑いかけてくれたから。冬の朝で冷やされたはずの顔が火照る。

 結果から言うと、縄跳び記録大会はものすごくうまくいった。鼻歌を歌いながら、一度も引っかからずに、というわけにはいかなかったけど、まあそれなりに長時間跳ぶことができたし、これまで体育の授業では取ったことがないような高い評定を通知表に書いてもらえそうな気がする。とはいっても、元々がダメダメだったから微々たるものだろうとは思うけど。
跳ぶのは跳べたけれど、当然のことながら、持久力がない私はかつてないくらい息切れした。息を吸っているのか吐いているのかよくわからない。背中を軽く叩いて「お疲れ!」と笑ってくれた彼にうまく返事ができなかった。全身が熱くなって頭がくらくらした。

 そんなこんなで、縄跳び記録大会が終わって、いつも通りの日常が戻ってきた。だけど染み付いた習慣は なかなか抜けないもので、当日から2週間経っても本来の起きるべき時間より一時間早く目が覚めてしまう。彼との朝練の時間はもうやってこないのに。密かに次を期待してしまっているんだろうか。次があるかもわからないのに。
あの時縄を飛び越えたようにその場でぴょんと跳ねてみたけど、冬の朝の静かな空の向こう側に私たちの行く先は見えない。

 この時から、私の心の全部が彼で占められている。……いや、ずっと前からそうだったのかもしれないけれど、確かに私の中に彼が存在していると気がついたのがこの時だった。
寝ても覚めても彼の顔が頭の隅に浮かんで消えない。こんなこと初めてだけど、これがなんであるか私は知っている。この声を、この眼差しを、この優しさを、独り占めしたいって思っちゃったんだ、それって、アレしかないでしょう?

 そう、だから好きになったのは私の方が先に決まってる。