Naturesince.2010.07.04

Sunshine Sunshine Sunshine

タイミングばかり気にして

 なんだか昨日の彼は、ぐるぐる考えを巡らせているみたいだった。珍しいこともあるものだ。なんだかちょっと元気がなくて、そんな彼をどうにか元気にしたくて、電車に飛び乗って遠くの海まで来てしまった。昨日の私は自分でもびっくりするくらい大胆で、びっくりするくらい行動的だった。……その大胆さも、行動力も、全部全部、彼に影響されて彼みたいになりたくてちょっとだけ背伸びした結果なんだけど。そんな私の大胆な行動がきっかけになったかはわからないけれど、一晩海の近くの宿で眠った後の彼はいつもの『考えるより先に行動する菊丸英二』にちょっとだけ戻ったみたいだ。早朝の海、波音だけが耳に届く静かな世界の中、「ねぇ、」と呼びかけてきた時の彼の声は半分緊張でこわばっていて半分ウキウキと弾んでいた。
「……ねぇ、、一緒に住まない?」
「……はぁ?」
予想外の問いかけに、何言ってんの? 冗談のつもり? と怪訝そうに眉を釣り上げてしまう。こういう時に可愛らしい反応ができない自分をちょっとだけ恨んだ。

 本当はずっと『いつかは』『きっと』『絶対』と思っていた。でもその日が今日来るなんて、全然思っていなかったし、何パターンか自分の中でシミュレーションしていた返事は全く口から出てこない。嬉しいけど、怖い。怖いけど、簡単にイエスといってしまいそうだ。どうか冗談であってほしい、そう願っていたのに、彼が「変な顔、」と吹き出した後「冗談なんかじゃないよ、」と真剣そうな表情をするから、少し怯んでしまう。肩にかかった薄手のカーディガンが潮風に揺れる。

 夏休みの午前中の電車は妙に静かだ。まだ夢心地の私と彼を乗せてガタガタと揺れながら前に進んでいく。大人しく席に座ったはいいけれど、なんだかこのまま別れてしまうのが名残惜しくて、「この後、うち、来る?」と誘ってしまった。目を見開いて驚く彼の顔がなんだか面白くてちょっと吹き出してしまう。いつもは自分から「この後の家、行ってもいい?」って聞いてくるくせに、変なの。
いや、分かってる、英二がこんなにぎこちないのは、海岸で「一緒に住まない?」と持ちかけられて、全力で拒否しちゃったからだ。「冗談のつもり?」「今は無理」って、なんと可愛くない物言いをしてしまったんだろうと反省する。
さっきはあんなこと言ったけど、ほんとは私だってこの人とずっと一緒に居たいって思ってる。でもこの人が居ると甘えちゃうから、頼りにしちゃうから、専門学校に通っている間は一人で頑張ろうって決めたんだ。決して無理して一人暮らししてるわけではない。思っていたよりも楽しいし、思っていたよりも自炊のレパートリーも増えた。だから、もうちょっとだけできることを増やしたくて、もうちょっとだけ自信を持ちたくて、……って思ってるんだけど、なんかあんまりこの人には伝わってないみたいだ。むずかしい。もどかしい。

 千葉の海岸から私が一人暮らししてるマンションまでは結構離れていて、たどり着く頃には涼しかった朝の空気はすっかり夏のむわっとした暑さに変わってしまっていた。1Kオートロックエアコン付きの部屋は学生の身分には贅沢すぎるような気もするが、防犯対策のしっかりとした部屋に住むことと家賃の三割はバイト代から出すことが両親から提示された一人暮らしの条件だ。自立のためにはお金がかかる。
部屋に入ると勝手知ったる彼は、特に断りも入れず洗面所で手を洗った後、「なんか飲み物ある?」と冷蔵庫を開け始めた。……まあ別に変なものを入れてるわけじゃないから構わないのだけれど。私も「麦茶ならあるよ、ドアの方じゃなくて、二段目、ジャムの下」と言いつつ、彼が持ってきた荷物をチラリと横目で見る。大きめのトートバッグからはみ出しているバイト先のファーストフード店のエプロンは洗濯した方が良いのだろうか。ケチャップやスパイスの匂いに混じって微かに彼の匂いがする気がする。

 ため息とも深呼吸ともつかないような息を吐き出して膝を抱えると、私の分まで麦茶を用意した英二がローテーブルにガラスコップを置いて横に腰掛けてきた。「これじゃどっちが客なのかわからないじゃない」と苦笑いすると「俺が飲みたかったからいーの」と笑う彼は結構世話焼き気質だ。
麦茶を一口飲んで、ホッと一息ついて、「それでさ、」とついさっきの話の続きのように彼は口を開く。
「それでさ、、さっきの話だけど、」
「さっきのって、何?」
本当は「何?」って聞かなくても分かってる。彼の言いたいこと、話したいこと。それでもわからないフリをする私は、なんとも可愛げがない。
「あの、ほら、一緒に住まない? ってやつ」
「……ああ、うん、」
「あれさ、『今は無理』っていつなら良いの? 半年後? 一年後?」
「そ、れは……、」
答えられない。答えられるわけがない。そもそも、それに即答ができるほどの自信が私にはまだないんだ。そうしたくないわけじゃない、けど……。返答に迷う私を見て、彼は眉を下げてちょっとだけ困ったように笑う。
「俺はさ、と一緒に居たいから、」
「……うん、」
「でも、最近ぜーんぜん会えないから、」
「うん、」
「分かってるんだけどさ、も学校あるし、バイトもあるし、」
「……そうね、」
「だから、一緒に住めたらいいなって、思ってるんだよ」
私がこんなに曖昧な態度でも、彼は優しい。かちりと視線が噛み合う。遠くの方から蝉の鳴く声が聞こえる。
「今すぐじゃなくていいから、さ、」
「……そう、」
「はは、思ってたこと全部言っちゃった、かっこ悪、」
かっこ悪くなんかないよ。好きな人のことだもん、全部知りたいに決まってるし、そう言ってもらえて嬉しいに決まってる。そう口にする代わりに、ちょっとだけ彼の近くに移動した。指先がぶつかる。エアコンは効いているはずなのに、身体中の血液が沸騰してるみたいに熱くなる。頭がくらくらする。呼吸が交わる。距離感が曖昧になる。このまま溶けて蒸発してしまいそうだ、と思ったところで、後ろにうまく倒れることができなかった私はゴツン、とフローリングに頭を打ち付けていた。
‪「あ、ご、め……」‬‬‬
‪ テニスで軽く小麦色に焼けた肌の色がみるみるうちに赤くなって、すっと目をそらされる。近くで感じていた熱が遠くへ行ってしまう。なんで離れようとしてんのよ意気地なし、という代わりに、彼のシャツの裾を軽く掴んだ。‬二人きりだ。邪魔する人なんか誰も居ない。良い雰囲気って多分こういう雰囲気なんだと思う。そのまま流されてしまう男性も大勢いるんだろうけど、それでも彼は優しいし、これで結構真面目だし、自惚れかもしれないけど私のこと大切にしてくれてるみたいだから、昨日の夜だって二人きりで海の近くの宿なんていう絶好のシチュエーションだったのに一切こちらに触れてこないし、今だって「いや、まって、やめとこ、」とそっぽを向いてしまうんだ。‬‬
「……やめるの?」
「やめ……たくはないけど! その、えっと、いま俺、その、アレ、持ってないし」
あれとはつまりアレのことだろう。私ももう子供と言えるような年齢ではない。どういうものかも分かっているし、使い方も知っている……それに、なんと、じつは、姉に押し付けられた未開封のものが一箱丸々薬箱の中に転がっているのだ。余計なお世話だ、とその時は思ったものだが、なるほどこういう状況で使うものだったのかとしみじみとした気持ちになる。が、しかし、どうやって彼に伝えたものだろう、掴んだままのシャツの裾をもう一度ぐいと引いてみる。彼がこちらを向く。目は、合わせられない。それでも、彼の小指の爪の先を無意味に見つめながらも、カラーボックスに収まっている薬箱を指差しつつ「……アリ、マスケド」と蚊の鳴くような声を絞り出す。一瞬時が止まる。目の前の彼の何を言われたかよくわからないというふうな表情につい吹き出してしまいそうになるが、ぐっとこらえる。数秒の沈黙の後、静寂を破ったのは彼の「はああああ!?」という叫び声だった。
「なんで!? なんであるの!? なんで!?」
「わ、悪い? 持ってちゃ悪い!?」
九割予想してた通りの反応だけど、いざそんな風に言われるとなんだかものすごく恥ずかしくなってしまう。声が裏返る。耳まで赤くなってしまっているのが自分でもわかる。
「だって痛いし怖いし恥ずかしいしもうやりたくないって前に言ってたじゃん!」
「い、言った、けど……!」
真昼間からなんと恥ずかしい会話をしてるんだろう。隣の部屋の人が出かけているような時間帯でよかった。誰かに聞かれていたらと考えたら今すぐ首をくくって死にたくなってしまう。……いや、彼がそばにいる限り、まだまだ死ぬことはできないんだけど。
なんとも言えない空気になってしまって、これ以上押しても引いてもどうにもならないような気分になってしまって、私はのろのろと起き上がって、彼が淹れてくれた麦茶を一気に飲み干す。ガラスコップの周りには水滴がびっしりとついて、冷たかったお茶はすっかり温くなってしまっていた。
一息ついて、私は顔面をクッションに押し当ててため息を押し殺し、彼はラグのうえに脱力したように身を投げ出す。

 ちょっとまってやっぱり、と彼が起き上がって姿勢を正すのはもう数分後。