大学生になって、はじめての夏が来る。一年生だからか課題はほとんど出なかったし、周りの大人たちは「夏休みなんて学生のうちだけだからたくさん遊びなさい」と言うし、バイトと部活の日以外は遊びまくってやろう! と心に決めていた。海にも、山にも、花火大会にも行きたい! と、思ってワクワクとスケジュールを立てていたはずなのに、その計画は目の前の女の子の一言で脆くも崩れ去った。
「えっ、、夏休みの間ずっと研修なの!?」
「ずっと、ってわけじゃないけど……あんまり遠出はできないかも。バイトもあるし」
まじかよ、と小さく呟く。目の前の女の子・は青学の高等部から大学に進むエスカレーターに乗らずに、外部の専門学校を受験した。美容系の仕事を目指しているらしい。もちろん、その夢は応援したいと思ってるし、研修にも勢いよく背中を叩いて送り出してあげたいけれど、一緒の学校に通ってた時と比べて会う頻度がぐっと減ってしまった寂しさは拭いきれない。なんだか悔しいから直接言ってはやらないけど。電話やメールはもちろん頻繁にしてるけど、約束せずとも毎日会えていた頃のことを考えるとそれじゃ全然足りないと思ってしまう。
他の奴を誘おうかな、とも思ったけど、大石も研修の予定でカレンダーは埋まってるらしいし、不二はなんと一家で軽井沢に行くらしい。俺はそれなりに友達は多いけれど、今回は他の奴を誘って遠くへ行く気にはあんまりなれなくて、もやもやともどかしい。
海に行こうかなんて、誘おうと思っていたけれど、いつになるかわからない、ほんとの出来事になるかどうかもわからない、夢のお話みたいになりそうで、口に出すのをやめてしまった。
「なんか、退屈」
つぶやいた一言は蒸し暑い夏の空気に消えていく。なんだか溶けてドロドロになってしまったアイスクリームみたいな気分だ。
♥
遊びの予定は決まらなくても、ジリジリと焼けるような暑さの中、夏休みは少しずつ進んでいく。バイトをこなして、部活に顔を出して、時々ふらっと街に出かける。そんな毎日。授業がある期間はバタバタしてたから、あまり意識してなかったけど、あの子に会えないってだけでこんなにぽっかり心に穴が開いたみたいな気分になるなんて、思いもしなかった。
だからそれは、ちょっとしたいたずら心だった。お盆が終わったとはいえ、まだジリジリと照りつける太陽は元気いっぱいな八月末。ランチタイムのファーストフード店でのアルバイトが終わった午後、人がまばらな電車内。なんとなくメッセージアプリを開いてなんとなくあの子とのやりとりを見返して、絵文字を滅多に使わないそっけない文面にあの子らしいと思ってひとり笑ってみたりして、そうしてふと思い立って、入力欄をタップしてキーボードに指を滑らせる。『大変だよ、! 早く来て!』なんて子供じみたメッセージ。いつも通り『何?』ってそっけない返事が来て、いつも通りくだらない話をして、運が良ければ電話して、じゃあまたねって通話を切る頃には日付が変わっているんだろうな、くらいの軽い気持ちで送った一言だった。
メッセージを送った後、いつのまにか、電車の中で寝てしまっていたらしい。連日の猛暑で体力が削られていて、涼しい車内が心地よくて、はっと顔を上げて車内のサイネージを見ると、降りる駅はとっくの昔に通り過ぎてしまっていた。
「えっ……千葉まで来ちゃってるじゃん……、」
十五分くらいで乗り換えないといけなかったのに、一時間以上眠ってしまっていたみたいだ。半分絶望、半分自分への呆れで思わずため息が出る。のろのろと立ち上がり、ひとまず止まった駅のホームに出たところで、片手に持った携帯電話が震えた。画面に表示されていた『』の名前を見て反射的に通話ボタンを押す。と、「もしもし、」と言い終わる前にあの子の焦ったような声がスピーカーから聞こえてきた。
「ちょっと! 今どこにいるのよ!」
「えーっと、千葉?」
「はああああ!? 何で!?」
「その〜、電車で寝ちゃって、」
うそでしょ、とか、何考えてんのよ、とか小さく呟いてる声が電話口から聞こえてくる。何も返す言葉が出てこなくて、思わず苦笑いしてしまう。
「『大変だよ』っていうからどうしちゃったのかと思ったら!」
「ごめん、ごめん、」
「も〜ッ!そこで待ってて! 迎えに行くから!」
「えっ、いいよ! 結構遠いし! もうすぐ暗くなるし!」
「……私が行くって言ってるんだから、待ってなさいよ!」
「……はい、」
普段にそんな風に強く言われることなんかないから、勢いに気圧されて頷いてしまった。いつもは素直じゃないことばかり言うくせに声色は穏やかなんだ、あの子は。
電話が切れる。あの子の声が聞こえなくなる。夕焼け空に照らされた駅のホームはなんだか物悲しくて、センチメンタルな気持ちになってしまう。
♥
が千葉の駅に着いたのは、すっかり日が沈んで暗くなってしまった頃だった。「実習とバイトは?」と聞くと、ちょっと気まずそうに目をそらす。
「実習は終わった、バイトは……休んできた」
「そんなわざわざ……」
「だって、あんなの見たら心配になるじゃない、返事も全然帰ってこないし、事故か事件に巻き込まれちゃったのかと思った」
それは、なんというか、なにも言い返せない。電話の後、通知を見たらからのメッセージが何件も届いていたし、不在着信もいくつも入っていた。すぐに返事を返していたら蒸し暑い千葉の駅でこうして二人で電車を待つこともなかったんだろうな。には本当に申し訳ない、けど、実はちょっと嬉しい。視線を泳がせる俺を見て、彼女は深々とため息をつく。
「そもそも、何であんなの送ってきたの?」
「海に、行きたくて、と」
「海に、」
「海に」
我ながら支離滅裂で要領を得ない説明だと思う。案の定、も「意味わかんない、」と訝しんだような表情を浮かべる。そりゃそーだよなあ、俺も苦笑する。「まったくもう、」と言いながらもここまで来てくれたこの子は優しい。
「心配するからもうそーいう嘘つかないでよ」
「ごめん、」
「色々あるけど、海に行くくらいの時間は作るし!」
「うん、」
「あ、と、普通に会いたいって言ってくれたら嬉しいし、すぐに行くから」
「……うん、」
ほんとはもう海なんかどうでも良いんだ。なんかが全てを放り投げてここに居ることが嬉しくてくすぐったくてちょっとだけ優越感。人がまばらになりはじめた静かな駅で二人で電車を待つ幸福感。溶けてしまいそうなほどに体温が高いのは、むせ返るような熱帯夜のせいか。
「で、いつ行くの?」
「えっ、どこに?」
「何言ってんのよ、行くんでしょ、海」
俺の目を真っ直ぐ見て、は笑う。と、同時にベルの音を鳴らして、俺たちが待っている方とは逆のホームに電車が滑り込んできた。視線の先でドアがゆっくりと開く。
この子とこれに乗ればどこまでもいけそうな気がする。