慌ただしい朝に「予定開けておいて」とぶっきらぼうにお願いしてからあっという間に一ヶ月が経った。どう考えても物を頼む態度ではなかったと密かに後悔するものの、彼はそんな私には慣れっこのようで、いつも通りに優しかった。……一緒に暮らしはじめてからこんな風に彼に助けられてばかりだ。
今年は温泉旅行に行こう、と決めたのは春、駅の大きな広告を見てからだ。思えば、彼と温泉旅館に泊まったこと一度もない。大浴場があって、夜は豪華な会席料理で、朝はバイキングじゃなくてお膳で出てくる。そんなやつ。部屋に露天風呂がついててもいいな。旅行自体はしたことある。それなりに。でも、前に旅行に行った時はお互いに学生だったし、泊まる場所より観光を優先で安いホテルを選びがちだったし、ちょっと豪華なホテルに泊まろうとなっても高級ビジネスホテルが精々だったから、そういう旅館の宿泊予約サイトを見ているとそわそわしてしまう。
とはいえ、予定を開けてとお願いしたものの、まだ「旅行に行こう」と誘うことができたわけではない。こういうのを言い出すのはいつも英二の方だったから、なんと言って誘おうかと考えているだけで無駄に緊張してしまう。
金曜日の夜だ。二人で並んでいつも通りテレビを見ているはずなのに、なんだかそわそわしてしまう。そろそろ言わないと、言っておかないと、そう思いながらちらちら彼の横顔を見て、この角度から見るの好きだなあだなんて思ってみたりして、そうしているうちに時間が過ぎて、「じゃあ俺そろそろ寝るね」と欠伸をしながら彼が立ち上がるから、思わず「まって、」とTシャツの裾を掴んで引き止めてしまった。彼は目を見開いているけど、自分自身でもびっくりしている。もう一度、さっきまで座っていた私の隣に戻ってくれて、手まで握ってくれちゃうから、なんだかいたたまれない気分になってくる。
「どしたの?」
「あ、あの、ね……、英二、」
「なに?」
首を傾げる彼の目を見ることができない。どうしていつもこうなってしまうんだろう、ぶっきらぼうにならないように、丁寧に伝えようとするのは、こんなにも難しい。早口にならないように、と呪文のように心の中で唱えて、私はゆっくりと口を開く。
「あの、ね、前に十一月予定開けておいてって言ったじゃない?」
「うん、」
「旅行に、行こうと思ってるんだけど、」
徐々に声が小さくなってしまっていくのが自分でもわかる。同時に、目も合わせられなくなってしまって、無意味にスリッパの爪先の方を見ることしかできない。たぶん断られることはないって分かってるんだけど、心のどこかで不安なんだ。
そんな後ろ向きな私に対して、彼は「えっ?」と少し驚いたような声をあげる。
「……それ、前から知ってるけど」
「……え?」
「だって旅行雑誌全部あそこに置いてるじゃん、流石にわかるって」 色々から回った恥ずかしさに一気に頬が熱くなる。いやこれは完全に私が悪いんだけど……。「じゃあ、そういうことで、」と「それならいい、」が混ざったような奇妙な言葉をもごもごと口にすると、彼はなんだか楽しそうにクスクスと笑った。
「ねえ俺さ、結構ちゃんのこと『わかってる』と思わない?」