それは結構勇気を出して口にしたわがままだった。
これまでもなんだかんだでバレンタインにはチョコレートを渡していたけれど、それはバレンタイン当日の帰り道に咄嗟に渡したコンビニの板チョコだったり、手作りとはいえみんなに配る大量のクッキーの中の一つだったりしたから、堂々と『付き合ってる』ということができるようになった今年は『彼だけ特別』を作っていいんだと思うと、嬉しいけど、戸惑ってしまうし、不安になってしまう。だから、彼の方からそのことを口にするまで話題に出せずにいたし、極力そのことは考えないようにしてきた。……といいつつ、こっそり毛糸を買ってきてマフラーを編んでみたり、バレンタインレシピ特集とかいう雑誌を思わず手に取ってしまったりしてはいたんだけど。
ショッピングモールが徐々にピンク色に染まって浮かれ始める一月末、彼に唐突にその言葉を告げられた。
「あのさ、バレンタインのチョコ、俺にしか作らないで欲しい」
思わず息をのむ。そんな独占欲の塊みたいな言葉、彼の口から出してくれたことなんてなかったから、頭の中の何度かリフレインしてようやく何を言われたか理解して、理解した上で「え?」と思わず聞き返してしまった。「だめ?」と問いかけてくる彼を見ていると口の中がカラカラに乾いていく。どんな顔をすれば良いのかわからない。でも、それなら、と私の心にも独占欲の塊が浮かぶ。こどもみたいでおとなみたいなわがままを、私も口にしていいかな。
「……じゃあ、私以外から受け取らないで」
一番言いたかったことは思ってたよりも早口になってしまったし、思ってたよりもぶっきらぼうな言い方になってしまった。もっとなんか丁寧なお願いの仕方があったはずなのに、心の中で頭を抱えてしまう。
それでも目の前の彼が「わかった」と頷いたから、これでいいかと思ってしまう。あまりにもまっすぐこちらを見てくるものだから、思わず目を逸らしてしまった。俯いたその顔が火を吹きそうなほど赤くなっていることは鏡を見なくてもわかる。
◯
バレンタインの当日はいつもよりも早く目が覚めた。……というよりも、夜遅くまでなんだかんだで眠れなくてほとんど寝ることができなかった。今日のために何度も練習したから、ピンク色のリボンで彩られた袋の中には自分史上最高に上手に焼けたチョコレートケーキが収まっている。「型に生地を入れて焼くだけだからそんなに神経質にならなくても大丈夫よ」と母親は言っていたが、それでも妥協なんかすることはできなかった。なんだかそれだけじゃ物足りないような気がして、前々日くらいに慌てて手袋を買いに行ったりもした。……来年は手編みを渡したりしても許されるだろうか。柄じゃないような気もするけど、浮かれてしまう。
ふわふわとした気分のままいつもよりかなり早く学校にたどり着くといつもは何足かスニーカーかローファーが入っている下足箱は全て上履きで埋まっていた。クラスで一番乗りだ。教室の暖房のスイッチを入れるのも初めてだから少しうきうきしてしまう。冬の朝の空気はひやりと冷たい。そのせいか余計に自分の体が熱くなっているように思えて、なんだか誰に見られているわけでもないのに恥ずかしい。彼はまだ部活の朝練から戻ってきていないようだ。
いつも賑やかなその席の上を見てヒュッと息を飲む。机の上に綺麗に、ラッピングされた包みがたくさん入った紙袋が置いてある。席を間違えたか、と一瞬頭をよぎるが、毎日そこを見ているんだ、見間違えるはずがない。室内は暖かくなり始めたはずなのに、どんどん手が冷たくなっていく。
チョコレートケーキを入れたトートバッグを持つ手が小さく震える。直接渡す以外にも、こういう方法もあるんだって、忘れてた。
彼の周りしか見てなかったから、遠くから彼を見ている人がいるなんて気づかなかったんだ。泣き出したいのか、怒りたいのか、自分でもよくわからない。教室に誰もいなくてよかった。暖房器具が温風を吐き出すゴウゴウという音だけがやたら煩く響く。
◯
こんなにもそわそわするバレンタインは初めてだ。俺のしか作らないでと言いつつ他の子からのチョコを受け取るのはダメなんじゃないかなって、ちょっと思ってたから、の方からそう言ってくれてちょっとホッとした。差し出されたものを断るのが苦手な俺でも『が嫌だって言ったから』と言えば断ることができる。あの子のこと悪者にしたいわけじゃないけど、最良で最上の言い訳だと思う。
もちろん、当日は朝からなんだか落ち着かなかった。テニス部の朝練もちゃんと集中できていなかったと思う。ふわふわとしたら気分のまま靴を履き替えて寒々しい廊下を歩く。いつもの廊下のはずだけど、いつもの廊下じゃないみたいだ、と思いながら歩いていると、階段の手前でとすれ違った。声をかけようとしたけれど、急いでいるからこっちに気がついていないみたいだ。なんだかちょっといつもと違う表情をしていたような気がして、ちょっと気になったけど、とりあえず教室に入る。と、俺の机の上に大量のチョコレートがおいてあって「えっ、」と声を上げてしまった。思わず近くの席の不二に問いかける。
「これ全部が置いていったの!?」
「いや、じゃないみたいだよ」
「えっ、うそ、じゃあ誰?」
こんなに袋いっぱいのチョコレート、誰が置いたというんだ。さっきの様子が少しおかしかったのはおそらくこの机を見たからだろう。『別に』とか『なんでもない』とかいう言葉の裏に本当は自信がなくて臆病なあの子が隠れていることを知っている。きっとこれを見て俺がこれを受け取るのかとかこれを置いた人のこととか色々考えちゃって、ここを飛び出したんだろう。焦って辺りを見渡す俺を見て、不二は何が面白いのかクスクスと笑って机の上と俺の顔を交互に見る。
「何が面白いんだよ!」
「……あのね、英二、それ全部僕の荷物」
「……何やってんだよもー!!」
「ロッカーに沢山入れてもらってたんだけど、僕の荷物入れるスペースががなくなっちゃうからそこに置かせてもらってたんだ」
まずかった?と首を傾げる不二の顔を見て深々とため息をつく。悪気がなさそうだから咎めることはできないけれど、少し苛立った声を上げてしまったことは許してほしい。だって俺はあんまりあの子を泣かせたくないんだよ。
◯
そこに居たらダメなような気分になってしまって、教室を飛び出した。だってわかってたんだ、優しい人だから、誰にでも穏やかに接することができる人だから、彼のこと好きなのは私だけじゃないって。それでも、いつしかその事実をすっかり忘れて、勝手に舞い上がってた。彼を独り占めしたみたいになってたんだ。
暖房が届かない女子トイレの個室は凍えそうなほど冷たい。『バレンタインくらいいいじゃない、』って、『今日くらいしか思いを伝えることができない子もいるんだから」って、自分に言い聞かせるみたいに脳内で反芻してみたけれど、手の震えは全然治らなくて、頭に浮かぶのはものすごく丁寧に作られていた彼の机の上のチョコレートたちだけだ。あのキラキラした包み紙に比べて私のケーキは子供が遊びで作ったおやつみたいで、一緒に入れたマフラーもなんだかぐちゃぐちゃで、情けなくなってしまう。
これは全部私の自分勝手でわがままな独占欲だ。でも、そうだとしても、こんな面倒くさいわがままを言うことを許してほしい。だって、彼のことが好きなんだもん。
どんなに教室に戻りたくなくても、無常にも時間は過ぎていく。そろそろ授業が始まる時間だ。音を立てないようにそっと女子トイレの個室から出てため息をつく。小心者の私は、こういうとき授業なんかサボってしまおうという気分になれないのだ。けれどなるべく遠回りして、人気のない廊下を選んで、のろのろと歩みを進める。
振り返る。さっきからずっと頭の中を占めていた菊丸英二その人がそこに立っていた。
「! どこ行ってたの!?」
「……べつに」
「べつに、じゃないよもー! 俺のチョコは?」
「あ、チョコ……」
トートバッグの中は見るも無残な姿になってしまっていた。なんだかもう、悲しいのは勿論だけど、それよりもなによりも情けない気持ちでいっぱいだ。
「あの、あのね、ちゃんと用意したんだけど、ぐちゃぐちゃになっちゃった」
必死に弁明するように言葉を紡ぎながら俯くと、なぜか彼はクスクスと笑って子供をあやすように頭を撫でてくる。多分きっと彼には今の私が聞き分けのない駄々っ子みたいに見えているんだろう。恥ずかしくてますます前を見ることができない。
「仕方ないなあ」
そう呟いた彼が、少しこちらに近づいてくる。そっと頬に手を添えられる。それに従い、少し上を向く。唇に柔らかい感触が伝わる。一瞬だった。でも、目の前の人の体温が伝わってくるのにはそれで充分だった。
「これで許したげる」
そう言って彼が笑う。なんだかじわじわと身体の中の冷たい氷が溶けていくみたいな気分だ。指先の震えがおさまってきて、目頭が熱くなってくる。この人はもしかしたら、魔法使いなのかもしれない。
◯
あの日彼の机の上に置いてあっまたチョコレートが、不二くんのロッカーに入っていたものだと知ったのはかなり後になってからだった。ということは、わたしは無意味にものすごい醜態を晒してしまったということになる。恥ずかしすぎて死ぬかと思った。……死なないけど。
たぶん結構凝り性なんだと思う。やると決めたらとことん熱中してしまう。だからまた今年も、あの日から数年を経て彼と二人暮らしをするようになった今年も、チョコレートケーキを焼く。今年はもっと美味しいものができるんじゃないかと期待して。忙しい毎日で電子レンジのオーブン機能を使う料理なんて滅多に作らないから、きちんと動くか冷や冷やしたけれど、なんとかなりそうだ。
今年は焼き立てをそのままお皿に盛って出すことができるから、ぐちゃぐちゃになってしまうこともない。私が食べるものを作ることもできるから一石二鳥だ。
オーブンから甘いチョコレートの香りがふんわりと漂ってくる頃、呼ばずとも彼がキッチンにやってきた。「これ俺の?」とキラキラした笑顔でこちらを見てくるから、こっちまで幸せになってくる。型からしっとりと焼けたスポンジを取りだして、ケーキクーラー代わりの焼き網の上に置いて冷ましていると、その様子をじっと見ていた彼が「そういえば」と口を開いてこちらの顔をのぞき込んできた。
「ずいぶん前にさ、不二がもらったチョコを俺がもらったものだってが勘違いしたことあったよね」
「……そうだっけ?」
「あの時もさ、チョコケーキ作ってくれてたけど、何度も練習して作ってたりしたの?」
「……さあ、もう忘れちゃった」
嘘。本当は全部覚えている。さっきもずっとそのことを考えていた。納得いくまでケーキを何度作り直したかも、オーブンの中で少しずつ膨らんでいくココア色も、あの時の唇の感触まで。でもなんだかそれを言うのは悔しいから、ケーキを切り分けるためのナイフを探すふりをしてごまかした。