Naturesince.2010.07.04

Short Story

「いってきます」

 ここのところ急に寒くなった。特に朝晩は布団から出るのが億劫になる程だ。隣で寝てる彼を起こさないようにうるさく鳴り響く目覚ましを急いで止めて、もぞもぞと布団から這い出て寝室から出ると、ひやりとした空気に身震いする。暖房とテレビをつけてキッチンへ向かい、ポットのお湯を沸かす。インスタントコーヒーとカップスープの粉を戸棚から取り出ししていると『今日は十二月上旬並みの冷え込みとなるでしょう』というお天気お姉さんの声が耳に入ってくる。去年の十二月ってどれくらい寒かったっけ。夏の暑さを通り過ぎてしまったから、今はもう思い出せない。

 木曜日は私の方が先に出かける日だ。彼は午後からバイト。いつも私が出かける直前くらいに起きてきてトーストにジャムを塗りながら「来年は卒論書かないとだし就活もあるしこうやってゆっくり起きてちゃんを見送ることはできないんんだろうなあ」とぼやいている。二年制の専門学校に進学し、四年制大学に通う同級生たちよりも一足早く就活も卒業も終わらせてしまった私にとってはなんだか羨ましい悩みだ。

 朝食も着替えも済ませて化粧もほぼ終わらせた頃に彼が目を覚ましてきた。寝癖のついた髪の毛がふわふわとあちらこちらに跳ねてていて少し笑ってしまう。ビューラーでまつ毛を上げていると「寒い寒い」と背中にくっついてきた。その暖かさに心臓が少し跳ねるけれど、忙しい朝はそれに浸っている時間なんかないから「まぶた挟んじゃうからやめて」と追い払うと、テーブルに広げたアイシャドウとリップを興味深げに眺めてから顔を洗いに洗面所へ向かう。戻ってきた頃に私は出かける時間だ。

「英二、私そろそろ行くね、」

 とコンパクトをパチンと閉じながら冷蔵庫を覗く彼に声をかけると「はい」とも「うん」ともつかない曖昧な返事の後、「そうだ!」と声を上げてこちらを向いてくる。

「ねえねえちゃん、アレやらないの?」
「『アレ』って何?」
「いってきますのちゅー」
「……はい?」

 突然の彼の言葉に、思わず声が裏返る。一緒に暮らしてもう数ヶ月になるけれど、行ってらっしゃいのキスも行ってきますのキスもなんだか照れ臭くてまともにやったことない。だから突然そんなこと言われてものすごく動揺してしまう。対する彼は半分寝ぼけてるからだろうか、ものすごく恥ずかしいことを口にしたはずなのにいつも通りポットの湯を沸かしたりヨーグルトに蜂蜜を入れたりしていて、なんだかそれが逆にますます私の恥ずかしさを増長させる。でも、それだとなんだか悔しいから、少し『イタズラ』をしてやることにした。普段は背伸びしないと届かないけれど、トースターで焼かれる食パン様子を見るために屈んでいる今なら、届いてしまう。掠めるようにその頬に唇を寄せて、すぐに離れる。「え!?何!?」と勢いよく頬を手で押さえて瞬きをする彼と目を合わせることは今はできない。

「じゃ、いってきます」

 それだけ言い残して、化粧ポーチを急いで片付けカバンに突っ込んで、誤魔化すように早足で部屋を出て玄関へ向かう。ドアの向こうからバタン、ドタン、とどこかに何かをぶつけるような音がして少し心配になるが、振り返るほどの余裕は今の私にはない。靴を履こうとして、シューズボックスの上の壁にかけられた鏡に移る己の情けない表情が目に入り苦笑してしまった。顔は耳まで赤くなって、きちんと塗ったはずのリップは少し落ちてしまっている。まだ早いままの心臓の音を宥めるように、ゆっくりと淡いコーラルピンクを滑らせて、気休めに耳たぶにコンシーラーを塗って、小さく息を吸う。と、バタン、とドアが開いて、好きな人の声が飛んできた。

「まって!ちゃん!」

 振り返るとちょっと怖い顔をした彼がそこにいた。ぐい、と腕を引かれ、そのまま、額に柔らかいものが触れる。寝起きの唇は少し熱くて、触れたところから溶け出してしまいそうだ。コンシーラーだけでは耳の赤さがごまかせないかもしれない、と頭の隅でぼんやりと思う。そうしているうちに今度は頬をそっと撫でられて、ゆっくりと彼の顔が近づいてくるから、慌てて己の手で相手の口を塞ぐ。くぐもった声で「ちょっと、」と睨まれるが今はダメ、だ。

「……くち、は、いま口紅塗りなおしたばっかりだから、また今度」
「……そ、か。……そだよね、うん、」

 ぼそぼそと呟きながら頬をかく彼を見て深々とため息をついてしまう。なんだか家を出てすらいないのにものすごく疲れてしまった。「じゃあ、私、行くから」と靴を履こうとすると、もう一度「まって!」と呼び止められた。またキスされてしまうのかと少し身構えると彼は照れ臭そうに笑って、私の髪を撫で付ける。

「マフラー!持っていかないと今日寒いみたいだよ!」

 そう言って彼は手に持っていたそれを首に巻いてくる。押しつけられた赤いチェックは去年まで彼が巻いてたものだ。なんだかものすごく嬉しいようなものすごく恥ずかしいようなよくわからない感情で胸がいっぱいになって、渡されたふわふわに顔を埋めることしかできなかった。