One more more more

#05

 マネージャー業でバタバタしていたらあっという間に都大会前半戦が終了してしまった。後半戦・準決勝と決勝、そして5位決定戦は一週間後に行われる。青学は勝ち上がったものの、聖ルドルフと対戦した準々決勝は気持ちが良いとはとても言い難い結果だった。……少なくともわたしにとっては。

 六月の風はむわりと湿気を帯びている。きっと涙を流したってすぐに蒸発なんかしてくれない。ゴールデンペアと呼ばれている菊丸英二くんと大石秀一郎くんのダブルスが負けた。そりゃスポーツの試合なんだから勝つこともあるし負けることもある。それでも、負けると悔しい。自分が試合したわけではないのにこんな気持ちになるんだから、いったい彼らはどんな思いでタイブレークの7ポイント目のボールが地面を叩く様を見ていたのだろう、わたしには想像することしかできない。どんな風に声をかければ良いのだろうと戸惑っていたけれど、思っていた以上に彼は前向きで、ダブルスに挑む後輩二人に明るい声をかけ、他校の試合を見て冗談を飛ばした。わたしは勝手に落ち込んで勝手に沈んで正直後の3試合はドリンクとタオルを用意するので精一杯で観戦どころではなかったというのに、強い人だ。

 彼の姿が見えないことに気がついたのは、竜崎先生の車にドリンクを入れてたクーラーボックスを積み終わった後、桃城くんと越前くんが一年生達に彼の行方を聞いて回っているときだった。どこに行ってしまったのかは分からないけれど、何をしているのかなんとなくわかってしまってハッとする。強い人だと思ってた、切り替えがうまくて、明るくて、ムードメーカーで、負けちゃったとしてもいつもの笑顔を見せて。でも、いつも通りなわけないよね、悔しいんだ、その場に居られないんだ、誰かに顔を見られたくないんだ、きっと、本人が自分自身で思ってる以上に。こういう時の彼は、周りの空気とかチームの雰囲気とかを考えているのかはわからないけど、まるで自分の弱った姿を見せたくない猫のようにそっといなくなる。そういう姿をわたしは見ない方が良いのかなって思うから、こっちから彼を探すことはないけれど、ここに居る彼のチームメイトはわたしの好きな人のそんな姿を何度も見てきたのかなと思うと、鼻の奥が少しツンとした。

「荷物積み終わったから、後は竜崎先生が一回家まで持って帰るって。マネージャーも、もう帰って大丈夫だよ、」
「おおいしくん……」

 片付けが終わって声をかけてきた大石秀一郎くんも存外すっきりとした表情をしていた。『準々決勝お疲れ様』とか『次は勝てるよ』とか『彼の回復を待ってくれてありがとう』とか『これからも彼をよろしく』とか、色々言いたいこと言わなきゃいけないことを考えていたはずなのに、いざ好きな人のダブルスパートナーと二人向き合うとなんと言えばいいのかわからなかった。いつもの『わたし』は彼のそばにいるけど、今の中学三年生の『わたし』はそうじゃないから、大石くんこそが今の菊丸英二くんのずっとそばにいる人だから、何だかごちゃごちゃになってしまうんだ。好きなのか嫌いなのか、得意なのか苦手なのか、分からない。不二くんのこと『データが取れない』って乾くんは言ってたけど、わたしからすれば目の前の彼の方がよっぽどデータがとれない男だ、というと語弊があるかもしれないけれど。好きな人を目の前にした時とはまた別の意味で、どのように喋ったら良いのか分からなくなる。

「マネージャー?」

 どうした? と心配そうに首を傾げる『青学の母』と呼ばれる人は、聡明で優しい。きっと、わたしが誰を好きな人のかってことも、だから今日の二人の試合を見て複雑な感情を抱いてしまったんだってことも、なんとなくわかっている。わたしの顔を見てハッとして「ごめん、」と小さく呟いたのもきっとそういうことだ。彼に責任を感じさせたくなくて「なんで大石くんが謝るの?」と笑ってみせる。うまく表情を作れていただろうか。

「テニスって、難しいね、大石くん」
「はは、確かに、こうすれば勝てるって必勝法はないからね」
「……でもね、大石くん、わたしね、テニスのこと嫌いになれないや」
「うん、」

 大石くんは目を細めて頷く。コートに立つ人はみんなテニスのことが好きだ。だからわたしは悔しくて、だからわたしはやるせない。嫌いになれたらどんなに楽だろう。それでも彼らは、鮮やかな黄色い色をしたボールが宙に高く上がる瞬間を愛し続けるし、それでもわたしは、大好きな人の素敵なところが全部詰まっているこのコートを、憎むことはできないのだ。

 明日からは少し違う気持ちで、好きな人と、テニスと、向き合えるかな。

*

 夏は徐々に近づいてきているが、相変わらず朝は眠い。手探りだとけたたましく鳴り続ける目覚ましに届かなかったから、もぞもぞとベッドから這い出して音源を探す。半分寝ぼけた頭でベッドサイドのテーブルに無造作に置かれたスマホを拾い上げ、音を止めてハッとする。

「これ、わたしのじゃないな」

 わたしのものではないけれど、ものすごく見覚えがあるシンプルな赤いケースは確かに彼のものだ。徐々に頭がはっきりしてきて自分の周りの環境が飲み込めてくる。わたしが居るのは実家の部屋、ではなく、彼と二人暮らししている1LDKの一室だ。どこに何があるのかは全部把握している、馴染みのある部屋。それでもつい昨日まで青春学園で中学生をしていたから、動揺と困惑できょろきょろと挙動不審に辺りを見渡してしまう。

「元に戻った……のかな、」

 ネイルアートも薬指の付け根の金色も最後の記憶のままだ。それでもまだどこか信じられないような気持ちで、恐る恐るキッチンへ向かう。ドアを開けるとふわりとパンの焼ける香りが漂って、見慣れた後ろ姿が目に入る。料理をする時は耳の下ほどまで伸びた髪の毛をひとつ結びにしているこの人が、好きだ。

 わたしが起きたことに気がついて「おはよ、」とこちらを向かずに挨拶した彼は、オムレツの焼き加減の調整に必死になっていた。いつもの休日の朝だ。あまりにもいつも通りすぎて、挨拶を返しながら少し拍子抜けしてしまう。

「……目覚まし、スヌーズになってた」
「あ、ごめん、」

 でも俺のおかげで早起きできたでしょ、と笑う好きな人は優しくて愛しくて格好良くて、ちょっと泣いてしまったのをあくびでごまかした。

 朝食を用意して、食卓のいつもの席に座る。なんだかそれだけで胸がいっぱいになって、「大好きだなあ」と思わず声に出た。

「何? どうしたの? 何かあった?」
「べつに、何も。菊丸英二くんが大好きだなって、思っただけです」

 それだけ言って彼の顔を見て、気がついてしまう。「なんだよそれ、」と小さく呟くこの顔を、わたしと向かい合う時にいつも見せる嬉しさと照れ臭さを押し殺して必死で普通の顔を保とうとしてるこの表情を、青春学園テニス部にいる時は一度も見ていない。じわじわと嬉しさがこみ上げてきて、つい声を出して笑ってしまう。彼は今もテニスが好きだ、そしてわたしは彼が好きだ。

 ……でも、自惚れじゃなければきっと、彼はわたしのことも、とっても好きだ。

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