One more more more

#02

 そもそも、わたしが昨日潜り込んだのは実家の古びたベッドではなく彼と二人暮らししてる1LDKの比較的新しいベッドだったはずだ。加えて、テニスのことなんか全くわからないし早起きも苦手なわたしは毎日朝練をしているテニス部のマネージャーなんかやらないはずだ。更にわたしの実家は青春学園中等部に行くには電車を乗り継ぎ乗り継ぎ二時間以上はかかってしまうようなど田舎のはずだ、バス一本で辿り着くはずがない。何もかも全部間違っているんだけど、わたしは誰にも何も聞かなくても、どこからバスに乗れば良いかわかってしまっていたし、学校へたどり着いてしまったし、自分のスニーカーを入れる下足箱の場所も把握してしまったいたし、挨拶してくるクラスメイトの顔と名前もわかってしまった。これは夢なのだろうか。それにしては妙に現実味があるから自分の中でうまく咀嚼できない。色々リアルすぎて、なんだかんだ最初からこれが正しかったような気さえする。こうなってくると、二十代の自分の方が夢だったんじゃないかとまで思えてきてしまったから、慌てて首を左右に振った。

 幸いなことか不幸なことかはわからないが、ここでの彼とわたしは選手とマネージャー以上でも以下でもないらしい。それはまあ、なんとなくそうじゃないかなとは思っていたけれど。それでも部室にたどり着いた瞬間、他にも何人か部員が居る場で「英二はまだきていないよ」とか言われるから、わたしが彼を好きなことはそれなりにいろんな人にバレてはいるようだ。彼の名前が出た瞬間あからさまに動揺してしまうが、これも『わたし』のいつも通りであるらしい。データマンの乾くんがノートに『マネージャーは通常営業』と書き込んでいるのが見えた。こんなわたしのデータまで収集しないで欲しい。乾くんがノートを閉じた直後に、勢いよくドアが開き、聞き覚えのある明るい声が室内に響く。常に笑っているように聞こえる語尾はわたしの隣にいる『彼』と変わらないけれど、『彼』の方が少し落ち着いた声色をしている気がする。じっとその姿を見ているとさすがに気づかれたのか、名前を呼ばれ、「どーしたの?」と顔をのごきこまれてしまう。「なんでもない、」と誤魔化したけれど、苗字を呼び捨てで呼ばれることなんて初めてだから、思わず小さく息を飲んでしまった。

*

 飲み会に参加させてもらった時とか、みんなでバーベキューをした時とかに『彼』のテニス部のチームメイトにあったことは何度かあるが、中学時代の彼らに会うのは初めてだ。……いや、おそらく『この世界』では初めてではないのだろうけれど。自分の部屋に飾られてある写真を見た時は、すぐにどれが誰だかわかったが、改めてまじまじと一人一人の顔を見ると面影はあるものの、表情も、体格も、わたしの知っている彼らに比べてかなり幼い。もちろんそれはわたしの好きな彼も同じで、いつも以上に天真爛漫に笑う彼を見て胸の奥がギュッと苦しくなってしまう。やっぱりこの人のことが好きだ。

 不思議なことに、人の顔と名前や建物の場所だけでなく、マネージャー業の内容も『わたし』の身体に刷り込まれていたみたいで、何をすれば良いかわからず右往左往するということは全くなかった。……だからといって、上手にできるようになっていたかというと、そうでもないが。スコアの付け方を間違えるし、ドリンク作りは野菜やら漢方やらよくわからないものをたっぷり入れているはずの乾くんの方が手際が良い。うまくできるのは部室の掃除くらいだ。だが、流石は名門のテニス部、マネージャーのサポートがぽんこつでも、朝練は滞りなく進む。他校の偵察が増えているとかですこしピリピリしている部員もいるが、それを除けば『いつも通り』だ。……いつも通りってなんだっけ? というのはこの際置いておくことにする。

 体が覚えていると言っても、力仕事……特に洗濯は思った以上に苦労した。部員の私物はもちろん各々自宅で洗濯するものだが、前日の練習で使った学校の備品のタオルはその日の朝のうちに部内で洗濯が必要になる。洗うのは機械任せにしておけば良いからほんの少しの量なら大したことがない仕事が、この人数分となるとわたし一人ではとても抱えきれない量の洗濯物が出来上がってしまう。部員たちが練習試合をしている間に物干しと洗濯機の間を何往復もしていると、「マネージャー、大丈夫? 何か運ぶものがあるなら手伝うよ」と自分の試合が終わったらしい河村くんに声をかけられた。お言葉に甘えて重たい洗濯カゴを運ぶのを手伝ってもらうことにする。河村くんとは彼自身が経営するお寿司屋さんで何度か会ったことがある。勿論、彼がボロボロになるまでラケットを握り続けた全国大会準決勝の試合のことも『彼』やその周りの人たちから何度も聞いている。その話題になるたびに穏やかな寿司屋の大将は照れ臭そうに笑って「みんながいたからできたことだよ」と目を細めるのだけれど。今は都大会の前、ということはその試合はまだのはずだけど腕や手にしっかりテーピングがしてある、たぶん例の渾身の力を込めたフラットショットの練習をしているんだろう。その手を見て、今日初めてこのテニス部の部室にやってきた新参者の『わたし』だけど、彼らには体を壊すような練習なんかして欲しくない、と思ってしまう。河村くんにはもちろん、他のみんなにも……もちろん、彼にも。

「無理、しないで欲しい」
「ごめんね、ちょっとそれは難しい」

 その手を見ながらポツリと漏らしてしまう。河村くんはすぐにわたしが何が言いたいのか分かったのだろう、謝って苦笑して眉を下げる。

「難しい、かあ」

 できない、わけではないのだ、河村くんはあえて無理をしている。そんなわたしの表情に気がついたのか河村くんはふふふ、と穏やかに笑って言葉を続けた。

「例えば、遠い未来で、テニス部で過ごした毎日のこと思い出した時、あの時ああすればよかったこうすればよかったっていう後悔の念じゃなくて、ああしてよかったこうしてよかったっていう満足感を抱きたいなって思うんだよ」

 まあ人間ってマイナスの感情はずっと覚えているのにプラスの感情はすぐ忘れちゃう生き物だからいつかは後悔の気持ちになってしまうかもしれないんだけどね、そう言って河村くんは笑う。

 それを聞いて、ちょっとだけこれまでとは違う景色が見えた。

 そうやって真っ直ぐに今の自分と未来の自分を見つめることができる人が、中学生の『彼』の側に居ることは大きな財産だ。きっとそんな仲間も含めて『彼』はテニスが大切なのだろう。『彼』が大事にしている青学のテニス部の他の子たちは何を考えているのかもっと知りたくなった。知ろうと思った。

 夢なのか幻なのかはわからないけれど、もう少しだけ、覚めないで。

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