春、舞い上がれ

卒業まであと3か月近くとなった冬の日、一つ年下の後輩が病気で倒れた。奇しくも彼は所謂私の恋人というやつで、毎日顔を合わせていたから、突然のことですごくすごく驚いた。
彼の同級生の柳くんからメールが来たときは驚きすぎて駅の階段でずっこけた。幸いすぐなおるかすり傷ですんだものの、こころの穴はすぐにはなおらない。骨折とかしてたら、彼と一緒の病院に入院できたのかな、と思う。すごく不謹慎だ。

彼はどうしていつもこう、こんなにもタイミングが悪いのだろう。
春、ゴールデンウィークのデートの日程を決めても部活の練習でドタキャンされた。夏、二人で行こうと数か月前から約束していたお祭りの日はテニスの大会で彼は県外に行っていた。秋、文化祭こそは一緒に過ごせると思っていたのに彼は演劇の脚本やら企画やら演出やらで忙しくてそれどころではなかった。冬、彼が病気で倒れたせいでもちろんクリスマスもお正月もお流れになった。
そして季節は巡り、また春。彼の病気は思ったよりも深刻で、未だ入院生活が続いている。当然、今日の卒業式にも彼は来ることができなかった。

「……幸村のばか。」

ブレザーの第二ボタン、もらってくれるって言ったじゃん。
春の訪れる気配がし始めた3月、まだ咲いてない桜の木の下で私は自ら引きちぎったブレザーのボタンを握りしめ、膝を抱える。
もうとっくに式典は始まっているし、私が居ないことに誰かが気付いているだろう。それでもかまわない。立海大附属は中学から高校へエスカレーター式で進学するからクラスの友達と別々の学校に通うことになるということは無い。けれど私は、彼がここにもどってくるまで中学校を卒業したくなかった。
彼にボタンを渡すことができないのならば、このまま埋めてしまおうかな。そう思ったその時、下を向いていた私の上に、何者かの影が落ちた。

「誰がそんなことしていいって言った?」

何度も耳にしたことがある聞き覚えのある声だ。この声に名前を読んでもらうことを望んだ、この声が楽しそうな音を出すのが好きだった、この声に『卒業おめでとう』って言ってほしかった。

「…幸村、」
「うん、俺だよ。」

名前を呼ぶと、彼は頷いて私の横にしゃがむ。前に病院に顔を出したときに見たゆったりとした青いパジャマではなく、見慣れた立海大附属のブレザーを着ている。

「なんできたの?病院は?」
「無理言って抜けてきたよ。先輩が卒業できていないような気がして。」

そう言って、幸村は笑った。その通りだ。私の心はまだ、彼が居るこの立海大附属中等部に囚われている。卒業なんて、できるわけなかった。

「俺が来たんだからさ、ちゃんと卒業してくれないと困るよ。」
「困る…?どうして?」
「追いかけられないじゃないか、来年。」

先輩を追いかけたいからさ、早く卒業してよ。そう、少し照れくさくなるようなことを、彼は大真面目な顔で言う。彼のそういうところが、すごく好きだ。
ごめんね、ありがとう。小さく言うと、彼は私の目の前にスッと右手を差し出した。

「ほら、」
「え?何?」
「くれるんだよね?第二ボタン。」

有無を言わさぬような声でそう言った彼の手のひらに、そっと深い色をしたボタンを乗せた。それを彼はぎゅっと握りしめ「ありがとう」と呟く。

「じゃ、先輩も卒業できそうだし、俺は帰るよ。」
「え、もう?」
「言っただろ?無理言って抜けてきたって。」

幸村は立ちあがり、校門の方向へ向かう。この口ぶりからすると、誰にも言わずこっそり病院を抜け出してきたようだ。悪戯っ子のように笑う彼を見て、私もつられて笑みがこぼれた。

「そうだ先輩、」

幸村は何か思いついたように立ち止る。そして振り返り、こちらを見てにこりと穏やかに笑った。

「卒業、おめでとう。」

ふわり、暖かい風が吹く。もう春はやってきているようだ。
卒業しよう、この場所から。

でも、まだ彼からは、卒業できそうにないな。