滑走スノウデヰズ

いつも電車で向かい側の席に座る眼鏡をかけた陰気そうな男の子がいる。私は彼のことを、本が好きだということと、テニス部員だということくらいしかしらない。その両方が彼の持ち物であるテニスバックと文庫本を見て得た情報だから、おそらく毎日同じ車両に乗っている人なら誰もが分かることだろう。彼と私はそれくらいの関係。まあつまり、赤の他人だ。
彼は、陰気そうではあるが、それなりに整った顔立ちをしている。すらっとした足を組んで文庫本をめくる姿はなかなか様になっている。……陰気そうだけど。ちなみに、こっそり盗み見した本のタイトルは『報われない恋だと知っていても』。チョイスが謎すぎる。

そんな謎に包まれた彼と会話することなんて、これから毎日電車に乗っていても一度としてないだろうとおもっていた。だが、それが覆される雪の日が来る。

『東京は積雪6cm。金曜日まで雪が続き、暖かくなるのは週末になるでしょう。』

お天気お姉さんの綺麗な声を聞いて舌打ちを打つ。子供の頃は雪が降るたびに兄弟ではしゃいでいたりもしたけれど、この年になると雪なんて鬱陶しいものでしかない。歩くと滑るし、電車も止まる。良いことなんかひとつもない。

予想通り、外はどこまでも白く染まっていて、普段の景色とはまるで違う。別の世界に来たみたいだ。
どうやら、いつも乗る電車はなんとか動いているらしい。転ばないように、ゆっくり駅まで足をすすめる。

駅までくると、地面に積もった雪はほとんど溶けていて、駅につながる上り階段は隅にすこし雪が残っているだけで、普段通りのようにみえた。
しかし、最後の段に脚をかけたその時、私の体はゆらりと傾いた。普段は乾いているそこが溶けた雪で濡れて凍っていることに気がつかなかった。

ぐらり、視界が揺れる。
衝撃に備え、ギュッと目を閉じる。
受身の体制を取ろうとするが間に合わない。
このままどこか怪我して病院に送られたりするのかなと、頭の隅で思った。

だが、予想していた衝撃はいつまで待ってもやってこない。閉じた眼を恐る恐る開くと、例の陰気そうなメガネ男子が背後から私の肩を支えていた。

「大丈夫か、お嬢さん。」
「え、あ、はい。」
「雪が積もっていないところの方が凍ったり濡れたりして滑りやすくなってることが多いからな。気をつけるんやで。」
「あ、ありがとうございます。」

慌ててお礼を言うと、陰気メガネの彼は「どういたしまして。」と関西のイントネーションで言って私の肩から手を離す。彼のことはいつもいつも見ているのにこんな声と喋り方をしているなんて全然知らなかった。

「あぁ、そうそう、お嬢さん、」
「な、なんですか。」

思わず敬語になって直立不動の姿勢をとってしまう私を見て、彼はふっと笑う。そして、自らの頭を指差し口を開いた。

「寝癖、ついとるで。」

……陰気な上に最悪だこの男。

陰気な上に最悪なメガネ野郎の話を弟のシンジにすると、「でも、ねーちゃんを助けてくれたんだから、ちゃんとお礼しないと。」とか言ってカントリーマアムの箱を差し出してきた。これをお礼に陰気眼鏡に渡せということらしい。

「なんで、『寝癖、ついとるで。』とか言った野郎にカントリーマアム渡さないといけないのよ。」
「だからお礼だって言ってるじゃん。」

いやだ!もうアイツとは話ししたくない!とベッドに座り駄々をこねていると「うるさい。」と抱き枕を投げつけられた。

「でも、ねーちゃんその陰気眼鏡のことがすきなんじゃないの?」
「は?なんで?」
「だって、最初の方その人のこと褒めてたじゃん。整った顔してるとか、文庫本をめくる姿はなかなか様になっているとか。」

まあ確かにそう言ったけど。「そんなのありえないよ。」というと弟は「なんでありえないの?」と聞いてくる。

「だって、アイツ、すごい嫌な奴だし。」
「もしかしたら、良い人かもしれないじゃないか。カントリーマアム渡して、少し話ししてくればいいじゃん。」

弟に諭され、渋々頷いた。弟がしっかりしすぎていて、時々どちらが年上かわからなくなる。

次の日、玄関の鏡の前で気合を入れる。彼にお礼を言って、カントリーマアム渡して、最後に捨て台詞の一言を吐いてやるんだ。

「よし、」と声に出して慎重に駅の階段を上った。雪はまだ溶けていない。彼は駅のホームで今日も文庫本を読んでいる。後ろからこっそり覗いたそのタイトルは『乙女とバラの花園』。やっぱり、チョイスが謎すぎる。

さて、ではどうやって彼に声をかけようか。考えを巡らせ、私は小さく深呼吸した。