もうずいぶんと前の話だが、夏になると訪れていた喫茶店がある。
夏になると訪れていた・というよりも、夏にしか開店していなかった・と言う方が正しいのかもしれない。冬になると雪に覆われてしまってたどり着けないような山道の、どちらかと言えば山頂付近に、その喫茶店はぽつんと店を構えていた。

そこは若い女性がひとりで切り盛りしていて、彼女を一目見るために山に登る男も居るほど、それは美しい人だった。
美味い料理を作り、必要があれば寝床を提供する。険しい山道の中のオアシスのような場所だった。

大変ではないのか、と聞くと「大変だけど、楽しいのよ。これが生きがいみたいなものね。」とテーブルを布巾で綺麗に拭きながら笑う。「聖母のような人だ、」と言ったのは誰だっただろうか。

ただ、彼女の淹れるコーヒーは泥のように濃くて、美味しいとはとてもいえなかった。
それでも、ここを訪れる人はみんな、彼女に勧められるままにコーヒーを飲んで、眉をしかめて帰っていくのだ。

その年も、例年通りに雪が解け、山登りの季節がやってきた。
扉を開けるとそこに彼女が居て、水色の布巾を手に「あら、いらっしゃい。」とつい3日前に会ったかのように微笑んだ。「毎年来てくれるお客さんのことはみんな覚えているのよ」と彼女は微笑む。椅子を引いて座るように促し、かぼちゃ色のケトルに水を入れて火にかける。

「コーヒーはお砂糖2つでよかったかしら。」

その問いに首を横に振り、勧められた椅子に腰かける。俺はそこに居る彼女のことを『夏の間だけ喫茶店で働いている』ということ意外全く知らなかったし、彼女も俺のことを『夏になるとやってくる登山客の一人』以上の認識はしていなかっただろうと思う。

家族のこと、学校のこと、そしてテニスのこと。彼女に話してみようかと思ったことは何度もある。
正直、いつもそばに居るわけではない彼女に下界でため込んできたもやもやを吐き出してしまいたいという気持ちは心のどこかにあったし、実際に彼女に悩みを相談している客も数多くいた。
話題はたくさんあった。今までに見たことのないほど強い後輩が入学してきたのだということ、腕の治療をしに九州まで行ったのだということ、全国大会で優勝したのだということ、そして、ドイツに留学するつもりだということ。

だが俺は、実際にそれを彼女に話したことは一度もなかった。
彼女が何も聞いてこなかったため自分から言う気になれなかっただけかもしれないし、普段自分が居る世界とは全く違う世界に居るようなそんな気がしていたからなのかもしれない。

「今日はもう頂上まで登ってきたのかしら。それとも、今から?」
「はい、まだ、これからです。」

そう、まだこれから、なのだ。山の頂上も、俺のテニスも。
そこまでたどり着くのは一筋縄ではいかないし、くじけそうになることもあるだろう。
それでも、俺は上に行きたい。頂上からの景色を、もう一度眺めたいのだ。

「そう、それなら、気をつけて。がんばって。水分補給はしっかりしてね。」

それだけ言って、彼女はテーブルににカップを置き、布巾を片手に仕事に戻って行った。

目の前に置かれたコーヒーを口に含むと、やはりものすごく濃くて、そのままではとても飲めたものではない。
彼女の目を盗んでこっそり角砂糖を2つ入れて、何食わぬ顔を装った。

俺がドイツに向けて旅立ったのは、その年の冬のことだ。

久しぶりに、あの山を訪れた。何年ぶりだろうか、もう思い出せない。
だが、昔と変わらず、その喫茶店はそこにあり、昔と変わらず、扉を開けるとそこに彼女が居て、「あら、いらっしゃい。」とつい3日前に会ったかのように微笑んだ。今まで俺がどこで何をしていたのかなどは一切聞かずに、椅子を引いて座るように促し、昔と変わらないかぼちゃ色のケトルに水を入れて火にかける。

「コーヒーはお砂糖2つでよかったかしら。」