
思えば、彼女の周りには最初から目には見えない壁があった。皆は俺のことを「サエ」とか「サエさん」とか呼ぶのだけれど、彼女だけは「佐伯」と他人行儀な呼び方だった。もっとも、俺以外の人のことは名字に敬称を付けて呼んでいたのだから、これでも俺と彼女の距離は近い方だったんじゃないだろうかと思う。
その彼女が、海の中に居た。
例えではなく、実際に海に沈んでいこうとしているのだ。しかも、まだ肌寒い季節だというのに、薄着で裸足だ。俺がここを通りかかったのはたまたまだったのだが、その偶然がなかったら今ごろ彼女は頭の先まで海水に浸かってしまっていたのではないかと思う。実際に今、彼女は腰あたりまでその青に体を沈めていた。
「、」
名前を呼ぶといつものように「佐伯」と返してくれて、すこし安心する。でも今は、ほっとしている場合ではない。「何してるんだい?」と冷静に、だけど、すこし強めに聞くと、彼女は淋しげに笑った。
「海で溺れて死んでしまえたら素敵だと思わない?」
脈略もなく、彼女は言った。
死のうとしているのだろうか、この海で。
なにも言えずにいる俺の存在を、意識しているのかいないのかわからないが、彼女は真っ直ぐ水平線の向こう側を見ていた。そして俺は、その背中を見つめる。なんて儚くてちいさな背中なんだろう。でも、それを、ひどく美しいと俺は思った。
「ねぇ、佐伯」
今度は彼女の方から俺の名前を呼んだ。そんなことは俺が記憶している限りはじめてで、「なんだい」と答えた声は情けないことにすこし震えていた。
「ほんとうはね、海の藻屑とやらになってみようと思っていたんだ。」
「それって、死ぬってこと?」
「端的に言えばそうなるかな。」
さらり、とそういう彼女をすこし恐ろしく感じた。この子は本当に『そうなりたい』と思っていそうで、怖かった。
「でもね、君を見たら考えが変わったよ。」
「俺を?」
彼女はちいさく頷いて、こちらを振り向いた。その頬には涙がつたって光っている。そして、そんなぐちゃぐちゃの顔のまま、彼女は笑った。
「やっぱりしぬのはこわいよ、佐伯」
びしょ濡れになってそう呟くのほうにまっすぐむかって、服を着たまま海の中には入り、気がつけば俺は無意識のうちに彼女を抱き締めていた。
「なら、俺と一緒に生きればいいじゃないか」
彼女の白いワンピースがゆらりと水面を泳ぐ。ふよふよと漂うそれは、白くて透明なゼリー状の生き物によく似ていた。