陽が沈むのがずいぶんと早くなった。部活が終わるような時間になると灯りをつけないと読み物も書き物もできないほどだ。この季節は一年中で一番夜が長くて暗いのではないかと感じる。子供のころは『このまま眠ってしまったら二度と朝が来ないのではないか』なんて考えたりもした。実際はそんなことはないのだけれど、冬よりすこし暖かくて夏よりすこし冷たい空気が不思議とそんな錯覚を産み出しているようだった。

携帯電話が着信を告げたのは暇をもて余して読み始めた本がちょうど半ばに差し掛かった頃だった。すでに夜中といっても過言ではないような時間帯だったから、不審に思いながらもディスプレイを見るとそこには滅多に電話をかけては来ない人物の名前が表示されていた。なにがあったのだろうか、とか考えるより先に俺の通話ボタンを押して、その手のひらサイズの通信機器を耳に当てていた。

?」

電波の向こう側に居る人物の名前を呼ぶ。だが、小さく息遣いは聞こえるものの、返事は全く無い。もう一度「?」と声をかけるとようやく「…滝、」と小さな声で俺の名前を呼んだ。

「うん、俺だよ。滝だよ。」
「滝、滝、」

繰り返し俺の名前を呟くその声は少し震えていた。それが、電波を通しているせいかそれとも別の理由があるのかは分からなかったが。どちらにしても、普段聞いている彼女の声とは異なるトーンで俺に届いてきていたから、全くの別人と話しているような不思議な気持ちになった。
もしかしたらではない他の誰かが彼女のふりをして電話をかけて来ているのかもしれない、とは少しも思わなかった。普段とは違うけど、今俺の耳に聞こえているのは確かにの声だという確信があった。

「滝、あのね、私、眠れないの。」

子供が内緒話をするように、彼女はささやいた。

「怖くて、眠れない。」
「何が、怖いの?」

俺が聞くと、彼女は考えるように少し黙った。そして再びその声を電波に乗せる。

「眠るのが、怖いのかも。」
「眠るのが?」
「うん。」

電話の向こうで彼女は頷いたようだ。そして「夜が暗くて長いから、眠ってしまったら朝が二度と来ないような気がして、怖いの。」と続けた。少し、いや、かなり驚いた。まさか、彼女が幼い頃の自分と同じようなことを考えているなんて、思いもしなかった。

、安心して。」
「…え?」
「怖いのなら、が眠くなるまで俺がの声を聞いているから。」

怖がらなくてもいいよ、とは言えなかった。誰から何を言われたって、一度芽生えた得体の知れない恐怖感というものは簡単に拭えないものだ。だからせめて俺が、彼女の恐怖感を和らげることができればいい。
あれからしばらく話をして、俺が少し眠くなって来た頃に、彼女の方から電話を切った。「もう、大丈夫だよ。ありがとう。」という言葉と共に。本当は、大丈夫ではなかったのかもしれない。

は、周りに気を使って一人でなんとかしようとしまうような子だ。きっと、あの電話だって、寝ていたりしないだろうかとか、起きていたとしても迷惑をかけたりしないだろうかとか、考えてからかけてきたに違いない。もっと頼ってくれたっていいのに、と思うし、彼女はテニス部のマネージャーでもあるから部員…とくに跡部に「無理はするな」「できないことがあるなら周りに声をかけろ」と言われているのをよく見かける。それでも、他人に迷惑(本人がそう思っているだけで、俺たちには全くそうは感じられないのだけれど)をかけるのが苦手な彼女の性分を改めるのは難しいことだろう。
そんな彼女が電話をかけてきたのが自分である、という事実に俺は少なからず優越感を覚えていた。

そういう俺に反して、電話の次の日の彼女はいたっていつも通りの態度で少し驚いた。普段通りジローや宍戸と話して笑ったり、忍足や岳人と一緒に日吉をからかったりしている姿に違和感はなくて、昨日の出来事は夢だったのではないかとすら思えてくる。それでも、携帯電話の着信履歴には確かに『』の名前が残っていて、あれは現実のことだったのだと確かに物語っていた。

「滝?どうしたの?」

名前を呼ばれて、無意識に下を向いていた顔を上げると、が不思議そうな顔でこちらを見ていた。『どうしたの?』と聞きたいのはこっちだ、とは言えずに「なんでもない」と笑って返す。
もしかしたら、昨晩のことをは忘れたいのかもしれないし、そうではなくてもあのことをみんなに知られたくないのかもしれない。そう考えたら、それ以上何も口にすることはできなかった。
その晩、再び俺の携帯は彼女からの着信を告げた。再び消え入りそうな声で眠れないのだと告げる彼女はいまどのような顔をしているのか分からない。

けれど、この暗くて長い夜に2人だけの秘密があるということはそう悪いことではないなとひそかに思う自分がいた。