テニスコートの周りには、ファンの女の子達でいつも人だかりができている。それでなくても、我が氷帝のテニス部は200人という人数だ。近くで練習を見物しようなんて、テニス部ファンでもなんでもない私にはこれっぽっちも思えなかった。

私がこの場所を見つけたのは、本当に偶然だった。だれにも邪魔されずにトランペットの練習ができるところを探していたら見つけた空き教室。その窓から外を除くとテニスコートが一望できることに気がついていたのはこの学校の中でもきっと私だけなんじゃないかと思う。もしかしたら、気づいていても部員達が豆粒くらいの大きさにしか見えないこの場所は、テニス部ファンの彼女達の眼中には入っていなかったのかもしれない。まぁそんなわけで、静かで快適な練習場所を確保した私は、教室から青空の下に楽器のあさがおを突きだして練習しつつぼんやりとテニスコートを眺めるというのが日課になっていた。

テニス部ファンというわけではないが、テニス部の彼等に全く興味が無いわけではない。その中でも彼の存在を意識しだしたのはいつからだっただろうか。彼はよく、私が練習している教室に一番近いコートで試合をしていた。黒い髪を結い上げたポニーテールのおかげで、遠くから見ていてもすぐに彼だと分かった。彼が走ったり、ボールをラケットで打ったりするたびにさらさらとなびく長い髪を、とてもきれいだと思った。
『恋』というよりも『憧れ』というものに近い感情だったのだろうと思う。彼をテニスコートで見かけると、その日はいつまでも息継ぎ無しで音を奏でていられるような気がした。彼がスマッシュを決めたら、いつもよりも大きな音が出せるような気がした。彼が勝利したときに吹いていた曲は今までで一番綺麗に演奏できたような気がした。
彼を見ていると私の音がまるでこの楽器の金色のように、きらきらしたものになっていくように思えた。そして、今よりももっときれいな音を、きれいな髪をした彼に聞いてほしくて、ぴんと背筋を伸ばしてマウスピースに息と私の魂を吹き込んだ。
「テニス部が都大会で負けて、コンソレーションに参戦することになった」という話を聞いたのは私が二年生になってしばらくたった初夏のことだった。きれいな髪の彼が『シシド』という名前だと知ったのもその時だ。テニス部レギュラーの名前を知らなかった私に、友人は驚いたような顔をしてから「あんたらしいね、」と笑った。
それから、私がテニスコートでシシドさんを見かけることはなくなった。とはいっても、氷帝のテニスコートはとても広いから、私に見えないどこか他のところで練習しているのだろう。だとしても、名前しかしらない彼の姿が見えないだけで、私の音は輝きを失ない、いつもは正面を向いていたあさがおも、下を向いて項垂れているみたいだった。

彼が居ても居なくても、自分の練習をしなければならないことに変わりはない。だがやはり、思いきり息を吸い込んで吹きはじめたはずの『ド』の音は、どこか弱々しく、ふらふらと安定しなかった。そのまま音階をあがっていくけれど、私の気分はどんどん下降していくばかりだ。
いまいちキまらないロングトーンを終えて、私はため息をつく。と、その時、教室の入り口の方からガタンと音がした。思わず振り返り、扉の方を見て、私は心底驚いた。長くてきれいな髪はすっかり短くなってしまっていたけど、そこに立っていたのは確かに私がいつも窓から眺めていた彼だったのだから。
いつも校舎から聞こえるトランペットの音が少しおかしい。そのことに気がついたのはレギュラー復帰してすぐのことだった。
そういう系統の音楽に明るくない俺が、その音がトランペットという楽器から発せられるものだと知っているのは長太郎が教えてくれたおかげだ。その音は時に飛行機雲のように真っ直ぐ鋭く、時に羊雲のようにふわふわやさしく俺のところに届いてきて、聞こえる度に俺の背中を押してくれてるような気がしていた。
だが、レギュラー落ちを通告されてからは必死で練習していて音を聞いているような余裕を失ってしまっていた。その間に何があったのかはわからないが、復帰してからの練習中にふと耳に飛び込んできた音がいつもより弱々しく小さかったことに驚いたのはつい最近のことだからよく覚えている。

じりじりと照りつける日差しの下、ダブルスの練習をしていたら、またあの音が聞こえてきた。やはり、今日もどこか力が無い。弱々しく震えながらも長くのびて、そして突然、ぷつりと切れた。そんなトランペットの音を気にしていたら、向日に点を入れられた。なんというか、俺、激ダサ。
ちょうどそのタイミングで休憩の声がかかった。向日や忍足にからかわれたり、長太郎に心配されたりしながらも考える。あの音が、どこかおかしい理由はなんだろう。時計を見ると、休憩が終わるまでにまだしばらく時間があった。悩んでいても仕方がない、原因が分かればすっきりするだろう。音の主を探すために、俺は眩しい太陽に照らされている氷帝学園の校舎へ足を向けた。

校舎の中はひんやりしていて練習で火照った体を冷やしてくれた。教室の中を音の主が居ないか覗き見ながら廊下を進んでいると、再びあの音が耳に飛び込んできた。
この音が終わる前に音の主を探さなければならない、何故かそんな気がして足は自然と早く動いた。

しばらく校舎内をさまようと扉が空いている教室の中に俯きがちにトランペットを構える女の子を見つけた。発せられる音は、小さく震えているけれど、長く長く俺のところまで届く。金色に輝くトランペットよりも、窓から見える青空よりも、彼女が一番きれいだと思った。
もっと近くで彼女を見たいと思い、近づこうとしたら床見切りに足を引っ掻けてしまった。
思わず扉に手をつくと、想像以上にガタンと大きな音がした。

そしたら彼女が目を丸くしてこちらを振り向いた。
彼は「あー、」と気まずそうな表情をして、私の顔を見た。私も、どうしたらいいのかわからなくて、挙動不審になってしまっている。具体的な解決策が思い付かないまま、金メッキに映る自分の顔を見たら、途方に暮れた情けない顔をしていた。そんな自分の表情なんか見たくなくて前を向いたら、彼とばっちり目があった。頬に熱が集まるのを感じていると、彼が小さな声で「悪い」と呟いた。

「え?」
「いや、俺、練習の邪魔したみたいだし」
「い、いえ、そんなことないです!」

それだけ言ったらまた沈黙が訪れた。どうしよう、これは気まずすぎる。そう思っているのは彼も同じなようで、短くなった髪をかきむしりながら再び「あー、」となんとも言えない声を発した。

「あのさ、」
「は、はい」
「お前、いつもここで練習してるだろ?」

まさか、彼にそう聞かれるとは思いもしなかった。咄嗟に返事をした声は裏返っていて、すごく恥ずかしかった。

「でさ、最近、前とはなんか少し音の感じが違うから、」

「どうしたのかと思ってた」だなんて、予想外すぎて狼狽える。目線の行き場を探していると「なぁ」と声をかけられた。恐る恐る彼を見ると、とても真剣な顔をしていて、思わず息を飲んだ。

「俺が言って良い台詞かどうか分からないんだけどさ、また前みたいなの聞かせてくれよ。お前の音が聞こえねぇと、力が入らないからさ」

そう言って彼は笑った。情けないことに、それに対して私はただただ声もなく頷くことしかできなかった。
なんだかうれしすぎて、この青空に浮かぶ雲になれそうだと思った。
気持ちのいい音と共に、宍戸さんのスマッシュが綺麗に決まった。相手の眼鏡の人は悔しそうに眉間にしわをよせる。
不意に宍戸さんが校舎の方を振り返った。あのときのように、ばっちりと目が合う。私だと気づいた彼はにやりと笑ってブイサインをする。それに答えるように、私は目の前に相棒を構えて大きく息を吸い込んだ。