昔の人は何を思い花に名前をつけたのだろうか、と時々考える。もし、世界で一番愛しい人の名前をつけていたのだとしたら、それは素敵だな、と柄にもなく思った。
珍しく、幸村たちテニス部の休みとの部活の休みが重なった。その事を幸村が告げるとは瞳をきらきら輝かせて「ねぇ精市」と彼の名を呼び、その手を握った。
「前から精市を連れていきたいところがあったの。」
「俺を連れていきたいところ?」
「そう、」
彼女は頷いてから、「一緒に来てくれる?」と首をかしげた。
聞かれなくても、答えはイエスだ。幸村が「もちろん」と、頷いての頭を撫でると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
鈍行電車に二人で乗り込んだ。窓の外を流れていく景色を横目で見ながら、幸村はに「どこへ行くの?」と聞いたが、彼女は少し首を左右に振って厳しい表情をするだけで何も言わなかった。本当は何度も問いたかったが、こういうときのは頑なに固い口を開こうとしないので、苦笑いを一つ漏らして諦めることにする。
の後を追い、電車を何回か乗り換えた。どれくらい時間がたっただろうか、高く上った太陽が少し傾きかけた頃、途中で買ったペットボトルのお茶をぼんやりと飲んでいると、彼女は小さな声で「次の駅で降りよう、」と呟いた。
その駅は、自動改札も券売機も無い、駅員も居ない寂れた駅だった。いつもよりも極端に口数が少ないは「ついてきて」とだけ言ってずんずんと幸村の先を歩いた。
駅の前には長くて急な上り坂があった。その坂をは一度も振り返ることなく登っていく。いつになく無愛想な彼女に幸村は怒られるようなことをしただろうか、と自問し、いやそれはない、と自答する。
以前にも何度かこのようなを見たことがある。確か最初にそれを見たのは、はじめて二人で出掛けた日のことだった。うるさいとまではいかないが、よく喋るがその日は朝会った時から別れるときまでほとんど口をきかなかった。彼女は緊張すると言葉数が少なくなるのだということを知ったのは後になってからのことだった。その次の日、なにか彼女を不機嫌にさせるようなことをしてしまっただろうかと不安になっていた時に自分よりもっと不安そうな顔をして彼女が教室まで謝りに来たことはよく覚えている。
今日の彼女は一体何に緊張しているのだろう。不思議に思いながらその後を追い、坂を登る。はもう、坂道を上りきっていた。それでも振り返らずに、彼女は坂の下をずっと見つめている。
「、」
ゆっくり、彼女は振り返った。「何を見ているの」と聞くと、手招きをされた。来ればわかる、ということだろうか。
その手に導かれるまま、彼女の隣に足を進めた幸村の目に飛び込んで来たのは、一面の赤い海だった。
赤い海だ、と幸村が思ったそれは広い広い花畑だった。一輪一輪は細くて儚いそれが初夏の風に揺れて大きな波のように見える。
思わず「すごい、」と呟くと、はほっとしたような顔をした。
「よかった、」
「なにが?」
「精市がそう言ってくれて、よかった。気に入らなかったら、どうしようかと思っていた。」
なるほど、それで今日はあんなにも緊張していたのか、と幸村は一人納得する。
「うん、すごく気に入った。ありがとう、。」
お礼を言いながら手をとると、彼女は「どういたしまして」とその手を握り返した。そして『連れていきたいところがあるの』と言ったあのときのように「ねぇ、精市」と彼の名前を呼ぶ。
「私、この花に名前を付けたの」
「へぇ、なんて?」
「……『精市』」
再び己の名前を呼ばれて「え?」と不思議そうな顔をする幸村を見てはいたずらっこのような表情をする。
「この花の名前、『精市』だよ」
「なんで俺の名前なの?」
幸村は問う。彼女は彼と手を繋いだまましゃがみこんで真っ赤なその花弁に触れた。
「この花、精市にそっくりなんだもの」
「俺に?」
そう、と彼女は頷く。華奢で、作り物みたいに綺麗なのに、色は燃えるように強い赤。それは、私が一番好きなもの。
「だから、私の中ではこの花の名前は『精市』。」
そう言っては立ち上がり、その日初めて幸村の目を見て穏やかに笑った。
そんな彼女がどうしようもなく愛しく思えて、幸村は花弁に触れたその手を引いて胸に引き寄せた。
「それじゃ、俺の中ではこの花の名前は『』だな」
だってそうだろう?俺の一番好きなものは君なんだから。
