「なに?」
不意に、彼女が声を上げた。無意識のうちに、目の前に在るその家見つめる彼女をずっと見つめていたようだ。彼女は顔をこちらに向けて少し首を傾けた。
「いや、なんでも……」
「あぁ、そう言えばお客様にお茶の一つも出していなかったね」
なんでもない、そういいかけた山本の言葉をさえぎって彼女は家の中に入る。玄関で靴を脱ぎ「よっこらしょ」と段差を登る。彼女が歩くたびに古い木造建築の床がぎし、と軋む。置いていかれないように、山本は彼女のあとを速足で追いかけた。そのたびに、彼女が歩くのとはまた違ったリズムで床が軋む。その不規則さが逆に心地よかった。
「ゆっくりしていってよ。せっかく来てくれたんだからさ、」
彼女・は学校に通っていない。仕事もしていない。ただ、この家をいつもまもっているらしい。「最近はやりの自宅警備員とかじゃないのよ、」と彼女は言う。
山本が彼女と出合ったのは学校の帰り道だったその時は雨が降っていて、風も強かった。だけど、彼女はこの温かい木造建築の外に出て、ずっと雨風にさらされるそれを見ていた。まるで、そうすることにより、この建物がこの自然の脅威に耐えられるのだというように。何分も、何十分も、何時間も。そして、山本はそんな彼女をずっとみていた。なぜかと自問して、彼は何の迷いもなくこう自答した「彼女がとてもきれいだったから」そして、同時に、彼女はどうして、この家を見つめているのだろうという疑問がわいた。だから、声をかけた。ただそれだけだった。そして、その時も彼女はこう答えたのだ「この家を護っているの」と。
それから、山本は彼女のところをよく訪れるようになった。訪れても、彼女と共に家をしばらく見つめて、お茶を飲んで、世間話をして、帰るというのが常だったが。
「まもってるって…じゃあ、がいなくなったらこの家はどうにかなっちゃうのか?」
山本がそう聞くと彼女は「さぁ、」とどうでもよさそうに答えた。
「さぁって……」
「それはね、武、私にはわからない。誰にもわからない。多分知らないほうがいいし知っちゃいけないことなんだよ。」
「なんかややこしいのな。」
「そう、世界ってややこしいの」
彼女に言わせれば、世界はややこしく、深く、面白い。知れば知るほどもっと先が見えてくる。そんなことはない、なんて言う人は、世界を知ろうとしていないだけだ、と。
「この家だってそう、」
彼女はそう呟いて自分のすぐそばにあるすすで真っ黒になった柱をなでた。
「こんなに古くなったのにまだまだここに建っている。」
「築、何年くらいなんだ?」
「さぁ、でも私が生まれるずうっとまえからここにあるみたいだよ。」
「へぇ……」
「こんなに古いのに、最近のコンクリートでできた家なんかよりずっと素敵。これって、ややこしくて、深くて、面白いことだと思わない?」
彼女の視線を追って柱を見上げた。誰かが背比べをしたのだろうか、ところどころに傷が付いている。彼女と同じで特別美しいわけではなかったが、とてもきれいだった。そしてなにより、その柱は、その家は、彼女は、とても優しいにおいがした。
「ねぇ武」
「ん?」
「また遊びに来て。いつでも待ってるよ、いつでも歓迎する。」
そう言って彼女は綺麗に笑った。優しくて、どこか懐かしい、素敵な笑顔だった。
