夕方の保健室は閑散としていて、こぽこぽと先生がお茶を淹れる音だけが響いていた。私は勉強するふりをしてノートを広げてシャープペンシルを持つ手を動かしているけど、実際は何も考えていないし、ノートにはただ意味のわからないぐちゃぐちゃが増えていくだけだった。
「さん、」
「はい!?」
急に声を掛けられて、妙な声を上げてしまった。そんな私を見て、先生は楽しそうに笑う。
「お茶、淹れたんだけど…飲むかい?」
「い、いただきます」
ハデス先生は不思議な人だ。見た目はすごく怖い人。やくざとか不良とかそういう感じの怖さじゃなくて、ホラー映画に出てきそうな感じ。でも、本当はとても穏やかで優しい人だ。私を、いや、私たち生徒をドロドロに甘やかしてくれる。こうやって、放課後に保健室で勉強したりできるのはここの担当がハデス先生だからに他ならない。ほかの先生だったら、図書室に行くか家に帰って勉強しなさい、と言って追い出されてしまうだろう。フランケンシュタインに出てくる怪物みたいだ、と私は思う。おそろしい外見をしているのに、心はとてもやさしい。そんな先生に私は恋をしていた。
先生はゆっくりと自分の湯のみと、こっそり保健室に置かせてもらっている私のマグカップを持って、私の座る椅子と向い合せに置かれているそれに座った。あわててぐちゃぐちゃがかかれたページをめくる。怪しまれただろうか、と思い先生の顔を見ると何が起こったのか分からないというふうに、目をまん丸にしていた。そうだ、この人はそういう人だった。
「どうしたの?…なにかへんなことでもあった?」
「いえっ、なんでもないです!」
首を左右に勢いよく振ると、先生は「そう、ならよかった」とほっとしたような顔をするので、私はちょっぴり罪悪感を覚えた。それをごまかすように、差し出された熱いお茶をごくりと飲む。
「テスト前だからね、集中力が増すお茶にしてみたんだ……どうかな?」
「はい…おいしいです」
すこしカップから口を話してお茶をさましながら、先生の顔を盗み見る。ハデス先生と二人っきりで居るなんて、怖くないの?何かの実験台にされたりしていない?と友人たちは言う。でも、そんなことはない。先生はこんなにも素敵で、カッコよくて、
「さん?大丈夫?」
「え?」
「なんかボーっとしてたみたいだけど…」
「勉強のしすぎじゃないかな、少しくらい休んだ方が…」そう言って心配そうに私のことを見る先生と目が合う。体の温度が一気に上がる。いろんな感情があふれて、心臓がバクバクした。
「さん…、」
「大丈夫ですよ」
「本当に?」
「大丈夫、大丈夫です」
本当は大丈夫なんかじゃなかった。胸を敲くこの音は全然やまない。くるしかった。つらかった。こんなにつらいのなら、吐き出してもいいんじゃないかな?
「ねぇ、ハデス先生」
小さく深呼吸して、先生と向き合う。こんなふうにしても、この人は全く私の気持ちに気づいてはくれない。男の人はみんなこんなに鈍感なんだろうか?でも、そんな先生がとても愛おしくかわいく思えた。不思議、相手は私よりもすごく年上な男の人なのに。
先生は無言で私に話を促す。ハデス先生は聞き上手だ。私の思っていること、考えていることは全部、先生の手によって引き出されてしまう。でも
「……やっぱりなんでもないです」
「え!?」
ハデス先生は驚いたような顔をして、数回瞬きをした。その顔がおかしくて、つい笑ってしまう。
もしかしたら、私が「すき」って言ってもおんなじような顔をしてくれていたのかもしれない。でも、それからどうなるのか、全く見当がつかない。分からない未来より、変わらない今のほうが私にとっては大切なんだ。
「ハデス先生」
もういちど名前を呼ぶと、また先生と目があった。今度は言おう、変わらない今をもっと素敵にするコトを。
「わたし、ケーキがたべたいです。テストの点がよかったら…連れて行ってもらえますか?」
「えっ!?」と先生はもう一度声を上げた。なんだか少し嬉しくなった。先生のこの表情が、私は好きなのかもしれない。…もちろん、どんな先生でも大好きなのだけれど。
生徒に甘い怖い顔をした先生は、悩みに悩んだ末、うなづいてくれるだろう。そう、この人はそういう人だ。私はすっかり冷めてしまったお茶を飲みながら、どのくらい勉強したらハデス先生とケーキ屋さんでデートできるのだろう、と思考を巡らせた。