空が徐々に白み始めてベネットの酒場にも朝日が差し込んで来る。グラスの最後の一脚をピカピカに磨き上げて、シャイロックは小さく息を吐いた。朝まで賑やかに飲み明かしている客がいる日も少なくはないが、今日の店内はやけに静かだ。店の中に人が居ないことに加えて、普段は口の減らない哲学者ムルも客席の隅でなにやら巨大な星図を広げて小声でぶつぶつと呟きながら鉛筆をくるくると回している。研究なら他所でやっていただけませんか、と何度か声をかけようかと思ったが、人が少ない店内で誰にも迷惑をかけず作業をしているのだから、と踏みとどまった。数十分おきにカクテルを注文しているから一応彼も客である。
「そろそろ店仕舞いですよ、ムル」
声をかけるとなにやら分厚い冊子と睨めっこを始めたムルは「う〜ん、あと十分、いや一時間」とベッドから出られない時の言い訳のような唸り声を漏らす。「やれやれ」と小さくため息をついて、シャイロックは小声で呪文を呟く。ドアの外からぱたんと音がして看板がひっくり返り『準備中』の表示になる。あとはこの自己中心的な学者先生を追い出すだけだ。
「貴方が昼も夜も関係のない仕事をしていることはよく知っていますが、こちらは働くのは夜だけど決めているんですよ」
「そうか、それはなかなかつまらない決まり事だね。誰が決めたのかな、君自身であるのならばそれは改めた方が良い。何事も『たった一つ』に囚われていたらイレギュラーに出会ったときに対応できないよ」
「なるほど、それも一理ありますが、今は私にとっての『その時』ではありませんね」
シャイロックがすう、と指を掲げる。するとウォールハンガーにかけてあったムルのコートがひらりと舞い上がり、踊りながら持ち主の背中にぴたりとくっつく。ムルは「うわ、」と小さく声を上げながら立ち上がって動くコートに促されるままそれを羽織り、手を触れずとも穴を通っていくベルトを見て眉間にシワを寄せた。
「どうしたんだい? 今日はやけに当たりが強いじゃないか」
「もう店仕舞いをしましたからね、今の私は店主ではありませんし、貴方は客ではありません。出て行けと言っているのにこの場に居座り続ける無礼者ですよ。私はその机の下を早く掃除させて欲しいのですが」
その椅子に積み上げられている資料を燃やしても良いのですよ、と指を刺すとようやくムルは荷物を片付けて猫のように伸びをしてニヤリと笑う。
「資料を灰にされるのは本意ではないな、……また来るよ、シャイロック」
「はいはい、お待ちしています」
いつもと変わらない挨拶を交わし、ドアを潜りぬける彼を見送る。客は誰もいなくなった。掃除をして、温かい紅茶を飲んで、布団に入ろう、そう思いながらモップを手に取って、そこで気付く。普段であればすでに箒に跨り空に飛び立っている頃合いであるはずのムルが、未だドアの前に立ち止まって興味深げに何かを見下ろしている。……なんだか少し嫌な予感がする。
「……どうかしましたか、ムル」
「妙なものを拾ったね、君にしては珍しいじゃないかシャイロック」
「妙な……何ですって?」
彼の言うような『妙なもの』を拾った記憶は全くない。ムルに近づき、彼の目線の先、店の入り口のドアを開いたすぐ足元に目を落とす。そうして酒場の店主は全てを悟る。やけに今日は客が少ないと思っていた。ドアの前にこのようなものが居ては入りたくても入れないから当然だ。
そう、酒場の入り口の前ではどこからきたか全くわからない小柄な少女がすやすやと寝息を立てていたのだ。
「犬猫の類は飼わない主義なのかと思っていたよ、君は」
「ええ、私もそのつもりでした。動物を育てるのは趣味じゃありませんから」
ムルの楽しそうな声にため息で返す。なんのつもりで彼女がここにいるかはわからないが、犬猫以上に厄介であることは確かだ。
「……貴方、起きてください、どうしてこんなところに……」
シャイロックが肩を叩くと少女は何やら呻き声を上げる。そうしてゆっくりと目蓋を持ち上げて、眠そうに目を擦り、二人の魔法使いをぼんやりと見つめる。そうしてどちらかが何か言う前に「あと十分……」と小さく呟き、再び寝息を立て始めた。