Vivaceかがり縫いのヴィヴァーチェ
since.2020.03.30

chapter One

行き先はコーデュロイ

 窓から差し込んでくる日の光と共に晶は目を覚ます。朝の客間がこんなにも明るいだなんて知らなかった。すでに目を覚ましていたが「おはよう、賢者さま」と目を細める。昨日は人間と同じサイズになっていたミシンの精霊はすっかり元の大きさに戻っており、彼女に貸した寝巻きは綺麗に畳まれていた。「寝巻きはお洋服と一緒に洗濯して返すわね」と使ったシーツを片付けるミシンの精霊はとても働き者だ。昨日は人間サイズのと二人で並んで寝て丁度よかった来客用の大きなベッドや寝具は、今のと晶の二人で居るとやたら広く大きく見えて、なんだかうきうきして少し笑みが漏れてしまう。

 昨日は「一緒に寝よう」と声をかけてよかった。二人で過ごすいつもと違う部屋はうきうきして楽しいけれど、一人で過ごすいつもと違う部屋は寂しく不安なものだ。晶がの立場であれば、昨日のような状況でこの客間の広いベッドで一人で一晩過ごしたくは無かっただろう。少々お節介だったかもしれないとも少し思ったが、精霊は「昨日はありがとう、とっても楽しかったわ」と嬉しそうにしていたから、ほっと息を吐いた。

 食堂で朝食を摂り、そのままクックロビンから受け取った書類に目を通してそれぞれ依頼をこなすメンバーを選抜する、というのが最近の晶のルーチンになっていた。一緒に卵サンドを食べたは、食べ終わった後すぐにクロエの元に戻るのかと思っていたが、なにやら言いたいことがあるらしく、書類の周りをふよふよと飛び回っている。

「……ねえ、賢者さま、私も着いて行くことができそうな依頼はないかしら」

「えっ、も?」

「だめ、かしら、」

 昨日の今日だからなんだかクロエが心配で、と眉を下げるミシンの精霊を無下に扱うことはできない。「いいですよ、も手伝えそうな任務を探します」と言うと、彼女は目をキラキラと輝かし嬉しそうな表情をする。

「本当!? ありがとう賢者さま!」

「ええ、でも、怪我をしないように気をつけて」

 もちろん! と頷いた精霊はそのままくるくると回りながら食器を片付けようとしていたクロエの元へ飛んでいく。

「クロエ! 聞いて! 私も任務に付いて行って良いって賢者さまに言ってもらったの!」

 ご機嫌な彼女の姿を見て、晶は笑みを溢す。次の西の魔法使い達の任務はいつも以上に賑やかになりそうだ。

 そんなわけで、此度は西と東の魔法使いで東の国の森の植物の保全任務に当たることとなった。もっと武功を立てることができそうな魔法生物の討伐任務が良いと拗ねていたシノは「でも、森に慣れているシノの力が必要なんです、頼りにしています」と声をかけると、たちまち機嫌が良くなった。反面、東の先生役・ファウストは不機嫌そうな表情のままだ。

「大丈夫ですよ、ファウスト、西の魔法使い達は貴方に害を及ぼしたりはしません」

「そうそう! ちょっとふわっとしたりザクッとしたりするかもしれないけど!」

「ザクッとって何!? なんだか痛そうじゃない?」

「そうかな、僕ちょっとは美味しそうだなと思ったけれど」

「そうね! パイを食べてる時みたい!」

 わらわらと賑やかな面々に囲まれた呪い屋は深々とため息をついた。

「……やはり西の奴らとは馬が合わない」

「馬が合わないってなあに? 鶏と豚はネロに食べさせてもらったことがあるけれど、馬も美味しいのかしら?」

「そういう話ではない」

 ミシンの精霊の素直な好奇心を浴びたファウストが眉間にシワを寄せるを見て晶は少し苦笑してしまう。が、なんだかんだで優しい東の先生役は彼女とも仲良くやってくれることだろう。

「みなさん、よろしくお願いしますね」

 晶の言葉に魔法使い達は頷く。

 馬が合っても合わなくても、任務は始まってしまう。出発は明日の早朝だ。

✂︎

 ヒースクリフは焦っていた。今日訪れていた場所は美しい花々の咲く穏やかな森で熊以外の生物に襲われる心配など微塵もないはずだった。そもそも熊程度ではこんなに焦ったりしない。大きな音を出しながら歩いていれば怖がって逃げていくし、出会ったとしても目を逸らさずゆっくり後退すれば向こうから近づいてくることは滅多にない、とシノに教わった。そう、今、ヒースクリフ達賢者の魔法使いの目の前にいるのは、熊よりもっと大きくて、熊よりもっと恐ろしい、巨大な魔法生物であった。

 なんとか全員揃って森の奥まで逃げてきた魔法使い達は焚火を囲んで一息つく。もう巨大生物の足音は聞こえない。が、あの生き物のそばを通らなければ森を抜けて魔法舎まで帰ることはできないだろう。今はまだ微かな光が木々の隙間から差し込んでくる時間帯だが、直に森は闇夜に包まれる。それまでにあの生物をなんとかできれば良いのだが……。

「ねえねえ、俺が聞き間違えたのかな? 今回は『植物の保全任務』って聞いてたんだけど、不思議だね!」

「ああ、僕もそう聞いていた」

「私もです、困りましたね」

 なんだかウキウキしているムルの言葉に先生役の二人が小さくため息をつく。きっとこの西の哲学者は想定外の出来事に大興奮していることだろうが、ヒースクリフは全くそのような気分にはなれない。むしろ不安で仕方がなくて、今にも逃げ出いたいくらいだ。

 はじめは本当に、森の植物の整備だけの予定だった。比較的人里に近いこの森にあのような生き物をこのまま放置しておくことはできない。先程の巨大魔法生物は退治して帰るべきだろう。予想外の事態だ。ネロは一先ず何か食べられるものを、と木の実やキノコを探しに行った。そう、腹が減っていてはあの生き物から逃げることすらできやしない。

 そんな若い魔法使いの不安な気持ちを整理するように、ラスティカが哲学者に問いかけた。

「ムル、あの生き物についてご存知ですか?」

「ドラゴンかな? 俺もたぶん初めて見た!」

 ムルの答えにヒースクリフは「ほぅ、」と思わず感嘆のため息をつく。

「ドラゴン……、とても巨大で美しい生き物ですよね。リケが前に会ったって聞いたけど……滅多に出会うことができないものなんだと思っていました」

「……本当にドラゴンか? 俺の森に居たトカゲによく似ていた。……あそこまで大きい生き物ではなかったがだったが、」

「なるほど! トカゲが<大いなる厄災>の影響で巨大化しちゃったわけか!」

 シノの意見にムルがうんうん、と頷く。森に住む生き物についてはシノがこの中の誰よりも詳しい。彼がそういうなら、おそらく正しいのだろう。……ドラゴンではなくてほんの少しがっかりだが。

「まあ面倒だから、ここではドラゴンと呼称しても良いだろう。……東は巨大生物の討伐経験が何度かある、が、西は?」

「化け猫やピクシー鬼の退治であれば何度か。ですがあそこまで大きなものは初めてですね。……大丈夫そうですか、クロエ」

「えっ、俺!? 不安だけど、やるしかないよね、頑張るよ!」

「ふふ、頼もしいですね。……ファウスト、念のため私たちにも巨大魔法生物の対処方法について、簡単に教えて頂けますか?」

「ああ、わかった。向こうの少し開けた場所で実践しよう。ヒースクリフ、シノ、二人は火のそばで見張りを頼む」

 シャイロックの頼みに頷いたファウストは、西の魔法使い達とともに小さな広場に向かう。火を吐くドラゴンでないのならば、そこまで心配する必要は無いだろうが、備えておくに越したことはないだろう。ヒースクリフも巨大な生物を倒した経験がないわけではないが、緊張していることは確かだ。……隣のシノは少し楽しそうだけれど。

 しばらくヒースクリフとシノが焚火を黙って眺めていると、小さな生き物がふわふわと広場から戻ってきて、二人の間にちょこんと腰掛けた。クロエのミシンの精霊・だ。

「どうした、ミシンの精霊」

 シノが問いかけると彼女は小さくため息をつく。森の植物の整備というそこまで危険ではない任務だからついてきた、と言っていたから、今の状況にきっと困惑しているはずだ。

、大丈夫? 辛かったら空に逃げていても良いよ。俺たちは木で遮られて箒が使えないけど、君は枝を避けて飛べるんだし……」

「ありがとう、ヒース。でも、違うの、そうじゃなくて、あのね、」

 いつもは積極的で賑やかなミシンの精霊だが、言葉を探すように視線を彷徨わせる姿は、初めて出会ったばかりの頃のクロエによく似ている気がする。……そしてヒースクリフ自身にも。

「……わたしも、もっと身体が大きくて、みんなを傷つけてしまうような存在だったら、あの子みたいに魔法で倒されてしまうのかしら」

 思わず小さく息を飲んだ。なんと返せば良いのかよくわからない。そうやってヒースクリフが戸惑い口籠って何も言えずにいる間に、シノが「そうだな、」と口を開く。

「……倒さない、と言い切る事はできない」

「あ、こら、シノ! あの、ごめん、

 ヒースクリフは慌てて立ち上がる。この幼馴染みはなんと正直者なんだろう。目の前のミシンの精霊も同じことを思ったらしく、「ふふ、シノは正直なのね」と眉を下げて笑う。そんな彼女と目を合わせないまま、シノは「だが、」と言葉を続ける。

「だが、今のお前を倒したらクロエが悲しむ」

 友人の悲しむところは見たくないからな、と東の森番は目を伏せた。ヒースクリフも同じだ。クロエの悲しむところは見たくない。

「……ええ、そうね、私もクロエの悲しむところは見たくないわ。ありがとうシノ、」

 頷いて悪戯っぽく笑うシノは、優しい魔法使いだ。……そう、ここにいる魔法使いはみんな優しい。

 オレンジ色の炎がパチパチと爆ぜる。焚火を見つめながら魔法使いと精霊は祈る。どうか、ここにいる優しいみんなが、無事に魔法舎に帰ることができますように。

✂︎

 大鎌を握りしめて、シノは小さく息を吐く。これまで何度も自分の森で自分より大きな生き物と渡り合ってきた。今回も特に恐怖の感情はない。が、緊張感でピリピリと張り詰めていることは確かだ。だが、それもほんの少し心地良い。

 ドラゴンが咆哮をあげる。近づいてきたら後は作戦通りに動くだけだ。

「全く、怪物退治は本分ではないのですが、仕方ないですね……《インヴィーベル》」

 シャイロックの呪文とともに、ふわふわとした煙が木々を倒しながら進んでくるドラゴンを包む。煙が不快だったのか、ぶるぶると首を左右に振りながら暴れたドラゴンは光を吐き出した。……光を吐き出した?

 吐き出した光は地面に落ちた木の葉をチリチリと焦がした。ネロが信じられないとでも言うように「はぁ!?」と声を上げる。

「シノの森に居たトカゲは炎は吐かないって話じゃなかったのかよ!」

「ああ、そうだ、そのはずだった!」

「そもそも大きさが変わっているからね! できることが増えていてもおかしくはない」

 勿論シノも混乱しているが、経験豊富な魔法使いたちも同じくらい戸惑っている。ヒースクリフは、とちらりと横を見ると顔を青くしてパチパチと光るドラゴンの口の中を見ていた。彼の恐怖を払い落とすように、そして己を奮い立たせるように、軽くその背中を叩く。

「炎、というよりも雷や光線に近いな、アレは。早くて対処が難しい」

「オズ様を連れてくれば良かったね、彼ならあの光を花に変えることくらいできそうだ」

「できるでしょうけど、やりたがらないでしょうね」

「ドラゴンが光を吐く前にバラバラにしちゃいそう……」

 ドラゴンを遠目から観察しつつも、雑談を始める西の魔法使いたちは流石だ。あの世界最強を連れてきて光線を花に変えてもらおうとしたりするのは彼らくらいだろう。……まあここにはオズはいないから自分たちでなんとかするしかないのだが。

 そうこうしているうちに再びドラゴンが口を開く。二発目が来る、と誰もが身構える。木の影に皆が隠れる中、パチパチと弾ける火花を恐れず、飛び出していく黒い影が一つ。

「光線ごときでやられると思うなよ、森で焚火をすればどこだって僕のマナエリアになるんだ」

 ドラゴンの正面に立つファウストが魔道具である鏡を構える。そうだ、側に焚火の炎があるから、今のファウストはこの中の誰よりも魔力の調子が良い。

「ファウスト、手足にも気を付けろ! 潰されるぞ!」

「分かっている、《サティルクナート・ムルクリード》」

 どこからか飛び出した縄がドラゴンに絡みつく。口元に猿轡のように巻きついた縄が邪魔で仕方ないのだろう、前足を必死でばたつかせているが、その足も木に括り付けられてうまく動かせていない。

「やったか!?」

「流石ですねファウスト」

「いやまだだ、あの縄はそこまで頑丈ではない。手足の拘束をするだけなら十分だが、奴が光線を吐こうとすればおそらく口の中に熱が籠もって、溶ける」

「ということは、」

「急いで倒さなきゃ!」

 魔法使い達は箒に跨り一斉に飛び上がる。そんな中、酔狂な哲学者が風の音をかき消すように叫ぶ。

「ねえシャイロック! 色々調べたいから殺さないでって言ったら怒る!?」

 シャイロックが何か言うよりも先にクロエが「それ、俺たちが先に殺されない!?」と悲鳴に近い声を上げる。

「ムル、貴方という人は時々とんでもない無茶を言いますね」

「……しかし、殺さずに済むならそれに越したことはないだろう」

「……ファウスト、貴方もですか」

 仕方ないですね、と西の先生役が煙を吐く。手足を拘束されたドラゴンが再び嫌そうに手足をバタつかせた。が、縄のせいだろうか、それとも煙に動物を痺れさせる成分でも入っているのだろうか、徐々にドラゴンの動きが鈍くなっていく。

「そのままだと引っ掻いたら痛そうだよね! 《エアニュー・ランブル》!」

 ムルの呪文でドラゴンの爪が丸みを帯びた形に変わる。「わあい! マシュマロみたい!」と嬉しそうに巨大生物の周りをぐるぐると旋回しながら前足をまじまじ観察する西の哲学者は、この巨体に押し潰されるかもしれない、とかは考えないのだろうか。

 そうこうしているうちに焦げ臭い匂いが辺りを漂い始めた。ドラゴンの口の中からだ。パチパチと何かが弾ける音がする。ファウストの言葉を思い出す。このままだと縄が溶けてしまう。いつの間にか猿轡にしていた縄が外れていた。ギラギラした瞳が真っ直ぐルビー色の頭を捉えている。

「クロエ、危ない!」

 叫び声と共に飛び出してきたのは魔法使いではなく、クロエの胸ポケットにずっと収まっていたミシンの精霊だった。放たれた光線が彼女に向かって真っ直ぐ飛んでいくのは一瞬であったはずなのに、シノにはまるでスローモーションのように見えた。

!? ……!《スイスピシーボ・ヴォイティンゴーク》!」

 クロエが呪文を唱える。が、間に合わない。精霊にぶつかった光は火花のように弾けて暗い森を照らし、消える。残され、銀色の針だけが空中をふわふわと飛び回り、クロエの掌に収まった。

「そんな、……、」

 声が震えている。まるで時が止まったかのようだった。胃の奥がひやりと冷える。確かにそこに在ったはずのものが、突然消えてしまうかもしれない、それを改めて叩きつけられたような気分だ。シノは密かにヒースクリフの表情を覗き見る。白い肌はいつも以上に血の気を失い、長い睫毛は震えている。

「よそ見をするなクロエ、まだあいつを倒したわけじゃない、君までやられるぞ」

 ファウストの声で明後日の方を向いていた感情が元に戻ってきた。再び箒は高く飛び上がる。

 とはいえ、動きがすっかり鈍くなったドラゴンを捕らえるのはそう難しいことではない。光線も連続して吐くことはできないようだからここにいる魔法使い達であれば造作もないことだろう。

 ネロが拳大ほどの石をドラゴンにぶつけ、もう一度気を逸らすように空に放り投げた。魔法をかけられた石は落ちることなく上空に止まり続ける。ドラゴンの視線は上を向いたままだ。

「ラスティカ、今だ!」

「クロエ、大丈夫、これで終わりだ。……《アモレスト・ヴィエッセ》」

 呪文をかけられたドラゴンは大きな地鳴りと共に倒れ、元のトカゲと同じ大きさになった。ムルの掌の上ですやすやと眠っている。

 が、精霊は元に戻らない。ラスティカに肩を抱かれた西の仕立て屋は祈るように拳を月にかざす。折れたミシン針を包むその手は、強く握りすぎたせいか爪が少し白くなってしまっている。

「悲しむところは見たくないって言っただろ」

 シノの小さな呟きは風の音と共に夜空に消えた。地面に落ちた滴は一体誰の涙だったのだろう。

✂︎

 東と西の魔法使い達が任務から戻ってきたと聞いて、レノックスが談話室に顔を出すと、部屋はいつになく物々しい雰囲気に包まれていた。誰かが怪我をしたのかと一人ひとりの様子を確認し、ハッと違和感に気づく。クロエがいつも肩に乗せているミシンの精霊が、居ない。

「あの、は、」

 問いかける賢者に応えるように、何も言わずクロエが拳を開くと折れたミシン針が悲しげに手の上に乗っていた。「そんな、」と口を抑え崩れ落ちそうになる賢者を慌てて支える。賢者の魔法使い達に与えられた任務は安全なものばかりではない。いつか仲間が傷ついてしまうかもしれないという意識は常にあったが、このような形でその日が訪れるなんて思いもしなかった。予想外の事態に声を震わせながらも賢者は「クロエ、」とミシンの持ち主の名を呼ぶ。

「……クロエは、大丈夫なんですか?」

「大丈夫だよ、賢者様、俺は全然……、」

「クロエ、無理に笑う必要はない」

「ファウスト……、」

 困ったように笑うクロエに静かに声をかけ、東の呪い屋は目を伏せる。彼が今、消えてしまったミシンの精霊と重ねて思い浮かべてるのはもしかしたら……、レノックスには察しがついていたが、何も言わなかったし、言えなかった。時計と暖炉の火の音だけが室内に響く。

 ずいぶんと遅い時間になってしまっていた。詳しい報告はまた明日、ということになったから一人また一人と談話室を出て自室に戻っていく。各々が暖炉の前のソファーに腰掛け膝を抱えて小さく蹲るクロエに声をかけながら。

「珍しいな、こんな時間まで一人でここにいるなんて」

「レノックス、」

「話したいことがあれば、話せば良い。話したくなければ、黙っていれば良い。俺はここで聞いているし、聞いていないフリもできる」

「聞いていないフリ、って先に言っちゃうんだ」

 クロエは少し笑う。ぽん、と肩を叩くと西の仕立て屋は膝をさらにギュッと抱きしめて目を細めた。

はさ、俺を守ってくれたんだ」

 暖炉の火にかざされたミシン針がオレンジ色に光る。

「俺、何もできなかった。まだ、に言いたいこともしてやりたいこともたくさんあったのに」

「……そうか、」

「俺、風邪ひいたときにおじやを作ってもらったお礼もちゃんと言えてないや、……もっとちゃんと言っておけば良かった」

 パチパチと暖炉の火が爆ぜる。きっと彼はずっと今日のことを気負い続けるのだろう。レノックスもそうだ。戦の中、仲間を何人も見送った。何もしてやれなかった。もっと何かかけるべき言葉があったはずなのに声が出なかった。クロエ本人は『レノックスの大変さと俺を比べたらだめだよ』というかもしれないが、それでもこの若く優しい魔法使いとあの頃若かった自分を重ねずにはいられないのだ。

 しばらく何も言わずに燃える薪を見ていたクロエは、深く息を吐き、小さく「よし、」と呟き、そうしてレノックスの方を向いて眉を下げた。

「ごめんね、レノックス、こんな話聞かせて」

「謝らなくても良い、クロエはが大事なんだな」

 俺もこの羊たちが大事だ、とレノックスは目を伏せる。メエと鳴いた羊はクロエを慰めるように頭をその手のひらにすり寄せた。

✂︎

 どんなに悲しい夜でも、いつかは朝になる。

 クロエは眠い目を擦りながら自室へ足を進めていた。レノックスには「すぐ部屋に戻るから大丈夫」と伝えたが、結局あのまま談話室でうとうとしているうちに外が明るくなってしまっていた。夜中は誰も来ないからそれで良かったが、昼は皆の憩いの場になっている部屋だからクロエが占領するわけにはいかない。

 だけど、自室に戻るクロエの足取りは重かった。きっとドアを開けるといつも通りの光景が広がっているのだろう。だがおそらくそこにミシンの精霊はいない。それだけでこんなにも、ドアを開けるのが怖くなってしまうなんて、出かける前は思いもしなかった。

、」

 彼女の名を小さく呟いて、ミシン針を握りしめた拳を額に当てる。どうか、大切な大事なミシンの精霊が、部屋のどこかで笑っていますように、と願いを込めて。

 ガチャリ、とドアノブを捻り、ゆっくりと押す。カーテンを閉めて出かけなかったから部屋の中はとても眩しい。と、へやの中から「クロエ」と名を呼ばれ西の仕立て屋は思わず目を瞬く。

「おはよう、クロエ。心配させてごめんなさい」

「えっ、!?」

「そう、私よ。あのあと目を覚ましたらいつの間にかここに戻ってきていたの」

 ずっとここにいたのになかなか帰ってこないから待ちくたびれたわ、と精霊は照れ臭そうに笑う。柔らかい日差しが窓から差し込んで、彼女のさらさらの髪の毛を照らしていた。

✂︎

「つまりミシン針はあくまでアミュレットのレプリカのようなもので、のマナエリアであり心臓部はミシン本体だった、そしてミシン本体を壊されたわけではないから君は死んではいないし、ミシン本体のなんらかの力のおかげでここにいつの間にか戻って来ていた、そういうことで良いのかな?」

「うーん、よくわからないけど、ムルの言う通りで良いと思うわ!」

 ムルが一言喋るごとに彼の胃袋に月によく似たクッキーが消えていく。「なんか雑だなあ」と苦笑するクロエの顔を見て、ミシンの精霊は満面の笑みを浮かべた。

「なんだっていいのよ、だって今、私はクロエとここに居るんだもの」