「賢者さま、賢者さま!」
早朝、晶はドアをノックする音と己を呼ぶ声で目が覚めた。恐らくこの声の持ち主はクロエのミシンの精霊・であろう。本当ならきちんと着替えてからドアを開けたいのだが、ドアを叩いている彼女がこんな慌てた声を出すのは珍しいから、何か緊急事態のような気がする。もぞもぞと起き上がり、目を擦りながらドアを開ける。
「おはようございます、。どうしたんです、か……?」
扉の向こう側を見て、晶は己の目を疑った。まだ夢を見ているのかと頬を少しつねってみるが、確かに痛みがある。混乱する晶の手を取り、ミシンの精霊は早口でまくし立てる。
「おはようございます、賢者さま! クロエに『誰かのお部屋にお邪魔する時はドアをノックして相手が開けるまで待っているんだよ』って言われたからその通りにしたのよ、偉いでしょう!」
「あの、えっと、……? その大きさは……」
「あっ、そうだった! 大変! 大変なのよ賢者さま!」
助けて! と抱きしめられて、この精霊の身体はこんなに柔らかかったのかと驚いてしまう。……そう、いつもは肩に乗る程の大きさのミシンの精霊は、今、晶とそんなに変わらない普通の女の子のサイズになってしまっていたのだ。
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診察を終えたフィガロは一息つくために食堂へ向かっていた。どうやらクロエが体調を崩してしまったらしい。……そして、クロエのミシンの精霊は彼の魔力の『ブレ』が原因で人間の女の子のサイズになってしまったようだ。
クロエのものであろうぶかぶかのシャツ一枚だけを着ていたに慌てて自分のワンピースを着せたのだ、という朝から疲れ切った表情の賢者の説明にフィガロは苦笑する。診察をしたところ、ただの風邪のようだから、今日は薬を飲んで安静にしておいてもらうことにした。恐らく、日々の依頼をこなしつつ徹夜で衣装を作ったりしていた時の寝不足と季節の変わり目の寒暖差が原因だろう。魔法を使わずとも暖かくして栄養を取ってしばらく寝ていれば治るはずだ。
「それにしても、が最初に向かったのが賢者様の部屋で良かったね、他を選んでいたら大変なことになってたよ、色々」
「本当にそうですね……」
食堂に戻りクロエの状態を報告すると、賢者は深々とため息をつく。件のミシンの精霊はというと、パンにジャムを塗る様子をムルにまじまじと観察されていた。
「ムルもジャムが欲しいの?」
「ジャムはいらない! うーん、なるほど、<大いなる厄災>の影響についてばかり考えてたけど、やっぱりクロエの魔力も影響していると考えた方が辻褄が合うな、それで、魔力の元になってる魔法使いが風邪を引いたら形態が保持できなくなるんだね! 面白い!」
「そうね、……ねえムル、クロエは治るのかしら、」
「わかんない! それはフィガロに聞いた方が良いと思うよ!」
微妙に噛み合っていない二人の会話に急に己の名前が出てきてフィガロは少し驚いてしまう。縋るような目でこちらを見てくるを安心させるように、フィガロは穏やかに微笑んだ。ら
「クロエは治るよ、安心して、ミシンの精霊さん。……ただ、君の大きさが元通りになるかは俺には分からないな、ムル、分かるかい?」
フィガロがそう聞くと、西の哲学者は「そうだなあ」と顎に手を当てる。
「……は元に戻りたい?」
「えっ、わたし?」
ムルに問いかけられたはとても深刻そうな顔をして悩み始めた。そんな彼女の悩みを解決できる者はこの場にはきっといない。それは彼女が決めることだし、こんなふうに悩むことができるのも、手足があっておしゃべりができるモノの特権なのだろう。
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ブラッドリーは苛立っていた。木の上で昼寝をしようと目を閉じたは良いが、下から賑やかな話し声が聞こえてきて全く寝ることができないのだ。自分だから苛々する程度で済んでいるが、此処にいたのが常時寝不足のミスラだったら声の主たちは今頃跡形もないだろう。そんな命知らずなやつはどこのどいつだ、と気になり枝葉の隙間から地面を見下ろすと、西の花婿とミシンの精霊(大きさはいつもと違うが、あの長い髪は間違いなくそうだろう)が和やかにお茶会を繰り広げていた。
ミシンの精霊は自身の持ち主である仕立て屋に何やら物申したいことがあるらしく、ぽこぽこと頬を膨らませて目の前の魔法使いに訴えている。
「クロエは無茶しすぎだと思うの! ラスティカもそう思わない?」
「あはは、クロエは頑張り屋さんだからね」
「そう! そうなの! 頑張るのは悪いことではないけれど、心配になっちゃう! この前も徹夜で衣装を作っていたみたいだし」
「そうだね、好きなことだから、夢中になれることだから、多少の無茶は平気だとクロエは思っているのかもしれないけれど、今日みたいなことがあると少し心配だね」
「ええ、わたしが言ってもクロエは頑張ってしまうだろうし」
話を聞くとどうやら西の仕立て屋は体調を崩しているらしい。ということは、彼の部屋から金目の物を盗むならきっと今が大きなチャンスだ。仕立て屋の身に付けている価値のある石や貴金属はどんなものがあっただろうか、それとも部屋にある布の方が価値があるのか、と、考えようとして、やめた。大盗賊がコソ泥みたいなことをしても面白いことは何もないだろう。
そんなブラッドリーの思考を遮るように、そしてミシンの精霊の憂いを溶かすように、西の花婿は「だから、」と優しい声を出す。
「だから、、君はクロエが助けを呼んだときに、すぐに僕らが手を差し伸べることができるようあの子の声を常に聞いていて欲しいと思うんだ」
クロエの声が出ない時は、クロエの代わりに僕のことを呼んで欲しい、そう言って微笑む西の魔法使いのお願いに、ミシンの精霊は「わかった、約束ね」と頷いた。
その『約束』、という言葉にブラッドリーはドキリとする。精霊の側が誓った『約束』だ。破られたとして魔法使いにはなんの影響もないだろうし、ブラッドリーにとっては痛くも痒くもない。しかし、望まぬ『約束』を抱えた魔法使いであるブラッドリーの胸の奥がざわめくことに変わりはない。
「代わりに呼んで、か」
ぼそりと呟いた声は、急に吹いた風の音にかき消された。
呼ぶなと言いたいわけではない、西の仕立て屋がそういう時口を噤んでしまう性分なのだろうというのもなんとなくわかる。だけど、
「助けを呼びたくない時もあるんだぜ」
まあ、俺はあいつじゃないから知らねえけどな。そう思いながら北の盗賊は再び目を閉じる。きっともう昼寝なんかできやしないだろうけれど。
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「おじやを作りたい?」
「そう! 折角この大きさでいるのだから、何かクロエの役に立ちたくて……、ネロ、作り方を教えてくれるかしら?」
人と同じ大きさになったミシンの精霊・が何を言い出すかと思えば、料理を教えて欲しいとのことだったから、ネロは頭を抱えてしまう。こういうことはカナリアの方が向いている、と言いかけてもう夜の帳がおりた時間だから彼女はすでに自宅に帰ってしまっていることを思い出す。
「仕方ねえな、ちゃちゃっと作ってちゃちゃっとクロエに食わせるぞ」
「ちゃちゃっと、ってどれくらい?」
「はは、それはミシンのお嬢さんの腕次第だ」
くつくつと鍋が音を立てている。が溶きほぐした卵を入れるタイミングを見計らっていると、夕食まで談話室で勉強をしていたらしい若い魔法使いたちが匂いにつられてやってきた。
「おじやですか? ネロ、」
「リケ! ミチル!」
「えっ、さん?」
「ふふふ、今日は二人と目線が同じね」
「まだ僕の方が少し高いですよ!」
子供たちと精霊の微笑ましいやりとりに、思わず頬が緩む。が、調理中におしゃべりに夢中になるのは命取りだ。
「火から目を離すなよお嬢さん、焦げちまう」
「あら、ネロがついているから大丈夫でしょう?」
「相変わらずめちゃくちゃな理論だな」
精霊ってやつはみんなこうなのだろうか。人が好きで、疑うということを知らない。それとも、元来の精霊の性質がそうなのではなく、彼女の持ち主の影響によるものか。ネロの思考に『どちらもだよ』と応えるように、おじやの暖かな香りがふわりとキッチンに広がった。
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は少し困っていた。このままだとクロエのおじやが冷めてしまう。
「クロエ、」
扉をノックして名前を呼んでも、返事がない。眠っているのだろうか。普段であればノックなどせず勝手にドアを開けて部屋に入るのだが(だってここはの部屋でもあるんだし)、なんだか今日は扉を開けるのが怖かった。
クロエのそばにずっといたら風邪がうつってしまうからなるべく離れているように、とフィガロに言いつけられていたから、今日は一日彼とほとんど喋っていない。だからこうして少しだけでも彼と話がしたくて作ったおじやを自ら持ってきたのだけれど、なんとももどかしいことに、ドアの前まで来て手足がうまく動かない。
風邪をひいているだけでいつもと変わらない優しいクロエのはずなのに、少し会わないだけで途端に顔を合わせるのが恐ろしくなる。
今の自分を見たクロエが、怖がったり怒ったりしたらどうしよう。もしかしたら、今の自分は背格好が彼の家族に似ているかもしれない。彼の昔の話は少しだけ知っている。人と同じ大きさをしたミシンの精霊を見て、彼があの頃のことを思い出してしまったらどうしよう。朝はドタバタのうちに過ぎ去ってしまったからとくにきにすることはなかったが、すっかり周りが静かになった今、そんなことはない、と言い切れないのが、怖い。
だから、ノックしたドアを彼が開けてくれるまで待っていようと思っていたのだ。彼がこちらを受け入れてくれるまで、踏み出すのを躊躇っていた。でも……、
「ごめんね、もう待てないわ、クロエ。せっかく手と足と温かいおじやがあるんだもの」
彼を起こさないようにそっとドアノブを回す。鍵はかかっていなかった。優しい彼はが一人で出かけている時はいつでも戻ってくることができるように鍵をかけないようにしてくれているのだ。そのことに今更気づいて、鼻の奥がツンとする。
案の定彼は眠っていたから、ほんの少しだけほっとする。声が聞きたかったけれど、今日はこれで良かった。机におじやを置いて長居せずにそっと立ち去ろうとする。と、器を置いたのとほぼ同時にクロエの身体がもぞもぞと動き、小さな唸り声を上げて、ゆっくりと目を開いた。
「……あれ、……?」
「あっ、クロエ、起こしちゃった……?」
「ううん、大丈夫、もう寝過ぎかなってくらい寝たし……あ、おじやだ」
「あっ、そう! おじや! ネロと作ったのよ! 食べ終わったら食器はそのままにしておいて、」
彼の声を聞くと少し焦ってしまう。それだけ早口で言って扉から出ようとすると「待って、」と呼び止められた。ドキリと心臓が跳ねる。
「どこ行くの、」
「賢者さまのところ。クロエが治るまでは客間で一緒に寝ましょうって言ってくれたの」
今はわたしいつものベッドじゃ寝れないし、とクッションの詰め込まれたバスケットを示すと、クロエは「そっ、か、」と小さく呟き、目を閉じる。そして、が何か変なことを言ってしまっただろうか、と焦り始めたころ、彼は再び口を開いた。
「……あのさ、、俺が食べ終わるまでここにいてよ、寂しかったんだ」
「えっ!? えっと、……うん、もちろん、」
本当にこれで良いんだろうか、とそわそわしながらクロエがいつも腰掛けている椅子に座って、ベッドでおじやを食べる彼を見守る。いつもは二人ともお喋りなのに今日はやけに静かだから、窓の外の夜空を無意味に眺めてしまう。今日は月は出ていない。
それでもずっと黙っているのはやっぱりなんだか落ち着かなくて、つい「……ねえ、クロエ」と声をかけてしまう。「何?」と答える彼の声は風邪のせいか少し掠れているが、いつも通り優しい。
「クロエは……、わたしが怖くないの?」
「なんで? 怖くはないよ。……そりゃ今朝はちょっと驚いたけど、」
そう言って西の仕立て屋はふふふと笑う。
「でも、はいつものだから」
「……そっか、」
穏やかな彼の表情を見ていると、なんだか胸がいっぱいになって泣きそうになる。これも自分の身体がいつもと違うせいだろうか。
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晶がクロエの部屋の前を通ると、ちょうどが部屋から出てきたところだった。
「、クロエの具合はどうですか?」
「今は眠ってるわ、ありがとう賢者さま」
ミシンの精霊はにっこりと笑う。手に持つ器はすっかり空になっていた。きっとクロエがとネロが作ったのだというおじやを綺麗に食べたのだろう。食欲があるならば、回復も早そうだ。
ほっとしていると、ミシンの精霊はすすす、と近づいてきて小声で「あのね、賢者さま、」と呼びかけてくる。
「あのね、賢者さま、ムルに聞かれたの、は元に戻りたいかって」
「元に……って、元の大きさにってことですか?」
「そう、……わたしね、答えられなかった。朝は、こうやって、クロエの役に立てるのは嬉しいし、このままでも良いかもって思ってたの。でもなんだか、今はクロエがちょっと遠くにいるような気がして……。戻りたくないけど、戻りたいの。どっちも欲しい、どっちも求めてしまう、」
ミシンの精霊は少し寂しそうな顔をする。
「ごめんなさい、賢者さま、こんな話聞かせて。……わたしわがままね」
「それ、は……」
それは悪いことではない、と言いたかった。わたしも同じだ、と言いたかった。晶も元居た世界に戻りたい、けれど、暖かで優しいこの世界から戻りたくない、とも思っている、どっちも欲しい、どっちも求めてしまう、とてもわがままだ。……でもミシンの精霊が求めている言葉はそういう言葉ではない気がするから、晶は何も言わずそっと彼女の手を握り、内緒話のように耳元で囁く。
「、今日は寝る前に『いいこと』をしませんか?」
「……いいこと?」
「昼間にネロが作ってくれたリンゴのタルトがふた切れただけ残っているんです。『賢者様の好きにしていい』って言われたから、二人で食べちゃいましょう」
「わたしももらっていいの?」
「勿論。の好きなミルクティーも淹れましょう、夜に甘いものはダメだっていつも言ってるけど、今日は特別」
「……ふふ、それってとっても素敵だわ、」
月のいない夜だ。優しい仕立て屋の夢も、彼のことが大好きな精霊が目を閉じて眠る前に巡らせる想いも、どうか穏やかであれと願いながら、晶は窓の外の空を見上げた。