Vivaceかがり縫いのヴィヴァーチェ
since.2020.03.30

chapter One

月に住むアンゴラ

 夜のカーテンが下りて空が紺色に染まっている。少し肌寒いから、ネロが用意してくれた温かいミルクティーがより一層美味しく感じられる。カリカリのクッキーがまんまるで、空に浮かぶ大きな輝きによく似ている。

「見て見てクロエ、お月さまみたい」

 ミシンの精霊・がクッキーの一つを掴んで持ち上げると、西の魔法使い・クロエは「本当だ、」と穏やかに笑う。

「……月といえば、最近ムルと仲良しだね、

「仲良し、なのかしら?」

 クロエの言う通り、月に焦がれる学者・ムルは最近やたらとに声をかけてくる。ミシンの精霊という魔法使いとして生きていてもなかなか出会うことがない珍しい存在だから、探究心が強い彼に興味を持たれているのだろうか。なんだか出会うたびに彼には難しい話をされる。……そもそも、ミシンの精霊って本当に魔法使いにとって珍しいモノなんだろうか。

「……仲良しのような気もするし、そうじゃないような気もするわ」

「違うの? もともとムルはモノと話すことができるから、も話しやすいのかと思っていたんだけど」

「それもあるんだけど、それだけじゃないの、えっと、『興味深いけれど、症例が少ないからまだ断言はできない』ってムルは言っていたのだけれど……症例って何かしら、クロエ」

「……なんのことだろう」

 普段のムルは毛糸玉とじゃれる子猫のようだが、時々とても賢い学者のようなことを言う。いや、元々とても賢い学者らしいのだけれど。ムルが何を考えて何を調べているのか、何度話しかけられてもにはよくわからなかった。月によく似たクッキーはこんなにおいしくて分かりやすいのに。

 

「クロエ、ムルが探していたよ、」

「ラスティカ、」

 噂話をしていたからだろうか、食堂にやってきたラスティカの口から出てきたのは西の哲学者の名前であった。「あ、じゃあわたし、先に部屋に戻ってるわね」とが浮かび上がると、紳士的な魔法使いは「いや、」と穏やかに静止する。

さえよければ二人で一緒に」

「わたしも?」

「何の話かな?」

「『がここに居る理由についての話』、だったかな」

 僕も詳しくは知らないんだ、と眉を下げ苦笑する彼を見て、クロエとは顔を見合わせる。何を考えているのかよくわからない哲学者の話は一体どんなものなんだろう。

 シャイロックのバーのドアを開くと、少し拗ねたような賑やかな声が飛んできた。

「遅いよクロエ! !」

 ラスティカは「お待たせしました、ムル」とニコニコ笑っているが、は呼び出された側だからなんだか少し緊張してしまう。それはクロエも同じみたいで、いつもよりもなんだか強張った表情をしていた。

「俺はすぐにでも話がしたかったんだけど、シャイロックがそれはクロエたちにも話した方が良いっていうから待っていたんだ! 偉い?」

「偉いですよ、ムル。ラスティカも、二人を呼んできてくれてありがとうございます。さあ、クロエ、、こちらへ。今飲み物を用意しますね」

 カウンターの席を勧められ、シャイロックにいつも通りの穏やかに声をかけられて少し肩の力が抜ける。東の料理人が作るミルクティーも好きだが、夜が似合う彼が用意してくれるキラキラとした飲み物も好きだ。「どうぞ、」と差し出されたのサイズに魔法で縮められたグラスの中では、赤いシロップと透明な炭酸水が二層になった液体がゆらゆらと揺れている。そしてクロエの前にもグラスを置いたバーの店主は「さて、」とムルに視線を向ける。

「さあムル、聞かせてください、貴方の話を」

「うん、ずっと調べていたんだ、どうしては突然目に見えて話ができるようになったんだろうって、」

「……それは、クロエがミシンを大事にしたから、ではないのですか?」

 シャイロックの言葉には頷く。自身もそう思っているし、きっとクロエもそのつもりのはずだ。が、聡明な哲学者はそれでは納得していないのか、目を細めて指揮をするように指を動かす。

「だったら何でこれまでは話ができなかったのかな? そう思わない?」

 確かに、ムルの言う通りだ。は出会った時からずっとクロエと話がしたかった。彼がミシンを大事にしてくれるから、お礼を言うことができればといつも思っていた。……何故今、話すことができるようになったのか、考えたことがなかったわけではないが、自由に飛び回り話をするることができることが嬉しくて、深く調べようとも思わなかった。周りを引っ掻き回すことが得意な哲学者は「、もしかして混乱してる? 混乱している人の顔って大好き!」と笑う。

「そう! だから俺は考えた、<大いなる厄災>の影響で暴走した魔法生物たちのように、も月の影響で肉体を持ち俺たちと話をしているんじゃないかって」

 ムルは、クロエが持ってきたクッキーを手に取り宙に掲げる。月に似ているそれは、月に焦がれる哲学者の魔法でふわふわと浮かび上がる。

の他にも、魔法使いと会話ができるようになった古い道具の話をいくつか聞いてきたんだ。いずれも会話ができるようになったのはここ最近。<大いなる厄災>の影響と考えて間違い無いだろうね」

 誰も何も言わなかった。沈默の中、宙に浮かんだクッキーだけが賑やかに揺れている。の座る高さからは、カウンターの向こう側にいるシャイロック以外の表情はよくわからない。そもそも、自分がどのような表情をしているのかもわからない。ただ、呼吸をするのを忘れてしまいそうになるような、ずっしりと重たい気持ちになってしまっていることは確かだ。そんな空気を破ったのはクロエの「じゃあ、」という声だった。

「……じゃあ、はこれからどうなっちゃうの」

 そうだ、<大いなる厄災>の影響で自分はここにいるということは、他の魔法生物達のように討伐されたりしてしまうのだろうか。そんなの不安をよそに、ムルは「あはは!」と楽しそうに笑う。

「俺はどうもしないよ、だって何だか楽しいし!」

「ええ、特に周りに悪い影響を与えているわけではないですし、今はそのままで良いと思います」

「でも、また月を追い返した時に、彼女がどうなるかは、俺にはわからない」

 ムルの言葉に再びひやりとした空気がバーを包む。シャイロックの用意してくれる飲み物はとても美味しいはずなのに、何故だか今日は味がしなかった。振り返ってクロエの方を見ると、ラスティカが心配そうに彼の顔を覗き込んでいる。

「クロエ、大丈夫かい?」

「あっ、ごめんラスティカ、なんだか、突然の話でなんと言ったらいいかわからなくて……」

 戸惑うような表情を浮かべる彼から思わず目を逸らしてしまう。いつだってクロエはの前では優しかった。彼の仕事をを手伝えることが嬉しかった。たくさんたくさんお礼がしたいのに……。そんな仕立て屋とミシンの精霊の様子を見たシャイロックは眉を下げの髪の毛を指先で軽く撫でて、クロエの目を見て微笑む。

「……大丈夫ですよ、クロエ、、貴方達が悲しい気持ちにならなくて済むよう、この学者先生が知恵を絞ってくれるはずですから」

「わ! 俺、頼られてる? じゃあ、頑張っちゃおうかな」

 ルンルンと今にもスキップしてしまいそうなムルに、空気が少しだけ和む。この猫のような哲学者が少し喋るだけで山の天気のように場の雰囲気がころころと変わるから不思議だ。

 クロエが部屋に戻るからと立ち上がっても、はバーカウンターから動きたくなかった。なんだか今はクロエと一緒にいない方が良い気がして。「これを飲み終わるまで、もう少しここに居ていいかしら?」と聞くとシャイロックは快く「もちろん、」と頷いてくれる。

 ムルもラスティカも部屋に戻り、静かになったバーで精霊は深々とため息をついた。なんだかものすごく疲れてしまった。

「ごめんなさい、シャイロック」

「ふふ、が謝る必要はありませんよ、」

 小声で謝ると、バーの店主はそう言って微笑む。だけど、はそうせずにはいられなかった。

「だって、わたし、分かってるの、<大いなる厄災>のせいであなたもみんなも傷を負ったって。でも今のムルの話を聞いて分かったの、<大いなる厄災>の影響が無くなればわたしは消えてしまうかもしれないんだって」

 シャイロックは何も言わなかった。彼は聞き上手だからつい喋り過ぎてしまう、と言っていた誰かの言葉を思い出す。その気持ち、とてもよく分かる、と密かに思いながらは言葉を続けた。

「わたし、わたしね、いま、<大いなる厄災>がずっと近くにいればいいのにって思っている、消えなければ良いのにって思っている、……ねえシャイロック、これっていけないことかしら」

 カランと氷が溶ける音が響く。しばらくの沈黙の後、シャイロックはゆっくり「そうですね、」と口を開いた。

「いけないことか、良いことか、それは私にも分かりません」

 そう言ってシャイロックは少し手を伸ばす。ムルが魔法をかけたクッキーはまだ宙に浮いたままになっていた。シャイロックはふわふわとカウンターに近づいてきていたそれを掴んで小声で呪文を呟き魔法を解いた。もうここに月はいない。

「……ですが、私の友人にもあの月が愛しくて愛しくてたまらないだなんて言い出す人が居ますから、それに比べれば可愛いものです。そう思ってしまったとしても気に病むことはないですよ」

 きっとクロエもそう思っています、という優しい声に精霊は泣きそうになりながら頷く。だけど、もう宙に浮いていたクッキーを食べることはできそうにない。

✂✂✂

 バーからの帰り道、クロエの頭はぐるぐると回転していた。ムルのように上手に考えることはできないけれど、何も考えないよりもマシな気がして。

 それでも、慣れないことを考え過ぎて脳が爆発しそうになるから助けを求めるように目の前の哲学者に声をかける。

「ねえムル、」

「なあに、クロエ」

 ムルは紫色の髪を揺らして楽しそうに笑う。毛先が月明かりに照らされてキラキラと光っていた。なんだかすごい哲学者に話しかけているみたいな気分になって(本当にムルはすごい哲学者なのだけれど)少し緊張しながらまた言葉を続ける。

は<大いなる厄災>の影響で自由に動いたり話したりすることができているって話、あれって本当に<厄災>の影響だけなのかな」

「なになに、面白い話だね! クロエは違うって思うの?」

 ムルは興味津々と言った様子で箒も持たずふわりと浮かび上がりこちらに少し近づいてくる。

「うん、例えば、<厄災>だけじゃなくて、俺の魔力も影響していて、俺が強くなったら、<厄災>の影響がなくなってもはここに留まり続けることができる、とか、そういう可能性って、」

「そっか、それも有り得ない話ではないね! だって<厄災>の影響だけでがここに居るんだったら、皆が身につけているモノや大事に扱っているモノもぜーんぶ同じように喋り出してもおかしくないはずだ」

 何やらぶつぶつと呟きながら、ムルは空中でくるくると回る。

「……ムル、大丈夫……?」

「……うん、うん、なるほど! わかった! 俺、ちょっと色々調べに出かけてくるから、賢者様とシャイロックには上手いこと言い訳しといて!」

「えっ、ムル!? ちょっと待ってよ!」

 クロエの静止を聞かず、哲学者は窓から飛び出し夜の闇に消えていく。空で光る月は、彼が宙に浮かべたクッキーにとてもよく似ていた。