クロエのミシンの精霊がこの魔法舎にやってきて三日が経った。……いや、ミシンはもともとクロエの部屋に居たのだから、見えるようになって、という方が正しいのかもしれない。
精霊はクロエがすぐそばに居なくとも、魔法舎の中であればある程度は自由に行動することができるようだ。動き回ったり喋ったりすることができるのがとても楽しいらしく、様々な国の魔法使いたちと交流を深めている。少し焦ったような羨ましそうな顔をするクロエを手招きしながら飛び回る様子はなんだか微笑ましい。
そうして動き回っているうちに疲れてしまったのだろうか、お茶を入れようとして取り出したポットを覗くとすやすや眠ってしまった精霊を発見し、晶は苦笑する。ポットの縁を小さくノックすると、精霊はゆっくりと起き上がり、目を擦り伸びをして晶を見上げて微笑む。
「あら、賢者さま、こんにちは」
「うん、こんにちは。いつからここにいたの?」
「さあ、いつかしら? クロエがお茶菓子を探すと言っていたからついてきたのよ」
クロエをびっくりさせようと思って隠れていたの、と精霊はクスクス笑う。クロエでなくとも、ポットを使おうとした相手を驚ろかせてしまうに違いない。西の国の出身の者は魔法使いでなくとも悪戯好きが多いのだろうか。……オズやミスラが相手だったらどうするつもりだったんだろう。晶の気持ちを察したのか、精霊は「大丈夫よ、怖い人が見つけるより先に賢者さまが見つけてくれたじゃない」と目を細める。適当なのか図太いのかよくわからない。
「そういえば、クロエはどこかしら。置いて行くだなんて、ひどい人」
「置いて行ったわけじゃないよ、」
ちゃんとお茶の準備ができたら起こそうと思っていたんだから、といつのまにかキッチンにやってきていたクロエは苦笑する。この様子だと己を驚かそうとしてかくれんぼをして眠ってしまった精霊にちゃんと気がついていたようだ。
「ルチルとミチルが、勉強が終わったら中庭でお茶をするから一緒にどう? って誘ってくれたんだ。……賢者様も一緒にどうかな」
もちろん、と晶が頷くと西の仕立て屋は嬉しそうに笑う。つられるようにミシンの精霊もにっこり笑った。
✂
穏やかな午後だ。太陽がぽかぽかと降り注いで、植えられた花々は優しく揺れる。精霊は、ネロが「精霊だってみんなと食事ができたら嬉しいだろ?」と用意した小さな食器やテーブル代わりのマッチ箱が大層気に入ったらしく、中庭のお茶会にも嬉しそうに持参してきていた。キラキラした瞳で食器を見る小さな生き物はとても可愛らしく、思わず晶も笑みが溢れる。魔法で火が起こせるはずなのになぜマッチ箱を持っているのだろう、と物珍しそうに色とりどりの箱を見るクロエと精霊に「魔法使いだとバレないように、料理屋やってる時は使ってたんだよ」と苦笑しながら説明していた東の魔法使いはとても優しい。
お茶会は和やかに進む。カップのミルクティーを飲み干した精霊がクロエの生み出すシュガーをカリカリと齧りはじめたころ、次に食べるクッキーを選んでいたミチルがふと「そういえば、」と声を上げた。
「そういえば、ミシンの精霊さんに名前はあるんですか?」
「名前?」
「僕はミチル、兄様はルチル、そしてこっちはリケ。あ、クロエさんのことは分かるよね?」
「こうやって書くんですよ、ルチルに教えてもらったんです」
そう言って指で掌にアルファベットを書いて精霊に綴りを教えるリケとミチルはとても楽しそうだ。
「名前……名前か、ずっと『ミシン』と呼ばれていたから、そんなこと考えたこともなかったわ」
賢者さまにも名前はあるの?と問われ「晶です」と答えると、精霊は素敵な名前ね、と目を細める。その様子をじっと見ていたルチルが「そうだ、」と声を上げにっこり微笑んだ。
「クロエが、彼女の名前をつけてあげたらどうかな」
「えっ、俺が?」
うん、と穏やかな南の魔法使いは頷く。確かに、ずっと『ミシンの精霊さん』と呼ぶのは他人行儀な気がしていた。持ち主であるクロエが付けた名前ならば、彼女も喜んでくれるだろう。案の定、精霊はネロから食器を受け取った時よりももっとキラキラした瞳をして胸に手を当てている。
「それってとっても素敵だわ! わたしの、わたしだけの名前を、クロエにつけてもらえるのね!」
「ほ、本当に俺でいいのかな?」
少し不安げな顔をするクロエにルチルは優しく微笑みかける。
「でも、クロエ以外に彼女に名前をつける事ができる人はここにはいないよ」
「わたし、クロエがいい! クロエじゃなきゃ嫌よ!」
「……えっと、ちょっと時間をかけて、考えてもいいかな」
「もちろん!」
何度も頷く精霊を見て、クロエは少し照れ臭そうに頬を染めた。ここにいる全員が、彼が彼女にどんな名前をつけるのか、とても楽しみにしている。
「ねえルチル、クロエに名前をつけてもらったらわたしの名前の綴りも教えてね」
「ふふ、お任せくださいミシンの精霊さん」
優しい風が吹いて、精霊の長いスカートがゆらゆらと揺れた。