珍しく日が出ているうちからシャイロックがバーを開けてくれた。「私に何か聞きたいことがあるのでは?」という言葉とともに。なんだか、彼にはなんでもお見通しみたいだ。
「……あの、シャイロック、俺がムルとさんにしてあげられること、何かないでしょうか?」
「してあげられること、とは?」
シャイロックが眉をひそめる。綺麗な人のそのような表情に内心慌てながらも晶は続ける。
「えっと、なんだか、好きな人を忘れるのも好きな人に忘れられるのもすごく悲しいことな気がして、」
「おやおや、賢者様はお優しいのですね」
「シャイロックは知っているんですか? ムルの魂が砕けたときのさんのこと」
晶の問いかけに酒場の店主は「やれやれ」と目を伏せる。本当はあまり口にしたくない話なのだ、とでも言うように。手元のカクテルの氷がカランと揺れる。ら
「知らない、といえば嘘になりますね。ええ、知っています、知っていますし、情緒が不安定な彼女に魔法もかけました」
「魔法、それはどんな……」
「試してみます?」
晶が頷くと、シャイロックはは小さく「《インヴィーベル》」と呟いて目を細めた。が、何も変わったように思えなくて、晶が目を瞬いていると西の色男はクスクスと楽しそうに笑う。
「今の賢者様にはあまり効果がないのかもしれませんね、これは悲しい気持ちを忘れてしまう魔法です」
「……悲しみを忘れる魔法?」
「ええ、長続きするものではありませんから、今は時折彼女自身がかけなおしているようですが」
シャイロックはパイプの煙をふう、と吐き出す。
「忘れているのはムルだけではない、彼女も忘れていることがある」
「それは……、」
「良いことか、悪いことか、正しいことか、間違っているのか、私にも彼女にも、そしてムルにも分からないんですよ」
シャイロックは目を細める。それは果たして本当に幸せなんだろうか、晶にはうまく答えが出せない。
窓の外をひらひらとちょうちょが飛んでいく。
☽
「こんにちは、ムル、賢者様」
穏やかな風が吹く午後、再び魔法舎にが顔を出した。
既にのことを忘れている様子のムルにまた「はじめまして」と声をかける彼女は、シャイロックが魔法をかけているとはいえ、なんと強い人なのだろうと感銘を受けてしまう。
だからこそ、彼女に聞いてみたかった。聞かなければならないと思った。晶は賢者の書を片手にに声をかける。
「もし答えるのが嫌な質問だったらごめんなさい、……さんは、ムルに自分のことを思い出して欲しいって思わないんですか?」
晶の問いには数度瞬いて、そしてクスクス笑い「そんなことを気にしてくれるなんて、賢者様は優しいのね」と目を細める。
「……そうね、昔は好きな人に忘れられるなんて、とても不幸だと思ったし、彼のことを忘れてしまおうとも思ったわ」
「……じゃあ、」
「でも今は、初めて出会った人と話すことができるワクワクしている彼を何度も見ることができるから、幸せだなって思ってるのよ」
西の魔女はそう言って笑ってちょうちょと追いかけっこをするムルを眺める。
これは歪で優しい魔法のお話。きっと魔法が解けたら誰かが傷ついてしまうから、彼らは呪文を唱えるのを止めることができないのだ。
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