数百年前
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「と結婚することにした」
ムルの言葉にシャイロックは目を見開いた。静かなバーの店内には彼ら二人しかいなかったから、他にムルの発言にリアクションをするものは居ない。ただ、氷の入った液体をかき混ぜるカランという音だけが虚しくカウンターに響く。
「……また急ですね、どういう心境の変化ですか」
努めて冷静な返答をしたつもりだった。が、目の前の哲学者は目を細め「落ち着いてくれシャイロック、何を焦っているんだい?」と楽しそうな表情を浮かべている。なんとも腹立たしく、憎らしい。
「と取引をしたんだ」
「取引、」
そう、とムルは頷く。魔法使いは約束をしない。約束をしないということはつまり、様々な約束事でがんじがらめにされる結婚だなんてもっての外だ。……そう、普通はそうなのだ。だけど、ムルは普通ではない。そんなのわかりきっていたことなのに。無意識にかき混ぜ続けていたレモンジュースを隅に追いやり、シャイロックはため息をつく。
「……彼女とどんな約束を?」
「約束? 取引は約束になるのかな? まあそれでも別に俺は困らないけど」
ムルはすう、と目を細め笑う。一体彼女は何をどうやってこの哲学者を説き伏せたのか、その時はなぜか聞く気になれなかった。
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朝と昼と晩を何度も繰り返した。両手両足ではとても足りなくなるくらい月が近づいてきて、その度に魔法使いたちは月を追い返した。
と結婚をしてもムルは変わらなかった。相変わらず月に恋焦がれ、相変わらず憎らしく、相変わらず口が達者だ。いつも通りだ、いつも通りの中で、ムルの魂が砕けた。
彼女はムルには会いたがらなかった。……というよりも、会わせることができなかった。獣のようなムルは全てを忘れていたし、暴れ出したら手に負えなかった。バーを訪れた彼の『配偶者』は憔悴しきった表情でシャイロックに告げる。
「お願いシャイロック、私の記憶を消して。ムルに会えなくて、ムルに忘れられて、私だけ覚えてるなんて、耐えられない」
シャイロックは目を伏せる。消せるわけがない。消してやるわけがない。自分だけ逃げようだなんて虫が良すぎる。
何も言わずにいるとはがら「あのねシャイロック」と小声で囁くように呼びかけてくる。
「私、ムルと取引したの、ムルを……ムルとの取引を忘れると私は魔力を失うわ」
「……そうでしょうね」
「でも、『ムル』にもう会えないなら、魔力なんかなくても良いと思ってる」
「……厄介な人」
やれやれ、とシャイロックはため息をつく。彼女の気持ちがわからないわけではない。魔力を失っても良いくらいのつもりでここに来ているのならば、応えてやっても良いのではとほんの少し思う。だけど、彼女のいう通りにするのはどうも釈に触るから、代わりに一つだけ魔法をかけた。
「《インヴィーベル》」