「ムルは居ますか?」
晶にそう聞いてきた女性はとても穏やかに微笑んだ。
「あ、えっと、ムルならたぶん……追いかけっこしてるのかな、ちょうちょと」
「ちょうちょ、」
女性は目を細めると、指をすう、と掲げて小声で唱える。
「《エルシダ・エルシ》」
すると不思議なことにひらひらとちょうちょがこちらへ向かってきて彼女の指先にぴたりと止まった。つられるようにムルがこちらへ走ってやってくる。
「いた! ちょうちょ! 賢者さま捕まえてて!」
「えっ、捕まえててってどうやって……」
あわあわとムルとちょうちょを交互に見ていると、女性(たぶん、いや、絶対魔女だ)はクスクスと笑って指先に止まったちょうちょをムルにそっと差し出す。
「こんにちは、ムル、」
「……誰? はじめまして?」
「うん、そうね……、はじめまして、ムル。私は」
「! 俺はじめましてって大好き! わくわくする!」
わあい! と嬉しそうなムルを見て晶は首を傾げる。ムルはいつも奇妙だが、彼女との会話はいつも以上に奇妙だ。彼女はムルを知っているけど、ムルは彼女を知らなくて、はじめましてだけど、はじめましてではなさそうで、
☽
晶が頭を悩ませているうちに、ムルは「クロエにちょうちょ見せてくる!」とどこかへ飛んでいってしまった。魔女と二人残されどうしようかと思いかけたところへ、聞き覚えのある声に名前を呼ばれる。
「賢者様……、おや、、こちらへ来ていたのですね」
「シャイロック、久しぶりね」
挨拶をしながらと呼ばれた魔女は書類やら何やらをシャイロックに手渡す。
「ムルは?」
「ダメね、やっぱり覚えてないみたい」
「あの、さんは、一体……」
「ああ、賢者様、失礼しました、こちらは」
「ああ、貴方が今の賢者様ね。私は、ムルの妻です」
「……妻!?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。晶の声に驚いたように側の木に止まっていた小鳥が飛んでいく。
「書類だけの関係ですよ」
「失礼な、私がムルのこと好きだったから『配偶者が居たら税金の控除の申請とか何かと便利よ』『今なら研究に関わるお金の計算も全部やってあげる、もちろん無料』って説き伏せて結婚してもらったんですよ。いまシャイロックに渡したのも、彼の研究の報奨金を株や運用で増やした小切手とか、引き落としの申請書とか、その他もろもろ」
古い魔法使いってお金の計算ができる人なかなかいないのよ、とは眉を下げ、シャイロックは「それを書類だけの関係と言うんですよ」と笑う。
それにしても、そのような関係ならば、さっきのムルの他人行儀な態度は何故なんだろう。そのような晶の疑問に気がついたのか、は「混乱させてごめんなさい、」と目を伏せる。
「ムルは私のこと覚えていないの、魂が砕けたときに忘れちゃった、教えてもすぐに忘れてしまう」
「それ、は、」
なにも返すことができなかった。好きな相手に忘れられてしまったら、覚えてもらえなかったら、自分ならどんな気持ちになるだろう、とまじまじとを見ると彼女は「もう慣れたわ、大丈夫」と笑みをこぼした。
「シャイロックはきっといい気味だと思っているんでしょうね」
「おや、そんな薄情者に見えていたんですか」
失礼な人ですね、とシャイロックは煙を吐く。
「とても哀れに思っていますよ、貴女のことも、……ムルのこともね」