縁側に座った老婆は彼の姿を見るとにっこりと微笑んだ。
「随分とお久しぶりでございますねぇ、祖国様」
祖国、と呼ばれた彼は「あの、さん、祖国様と言うのは……止めていただけませんか?」と少し困ったように眉を下げた。
「何故です?あなたは私たちの祖国様でしょう?そう、お呼びになるかたは私以外にも大勢いらっしゃるはずです」
「……昔のように、呼んでいただけませんか?さんにそう呼ばれるとどうもくすぐったくて…」
「昔は昔、今は今、です。昔の私は若く、そして浅はかでした。あなたは私たち人間が気軽に名前をお呼びしていいような存在ではなかった。」
老婆は昔を懐かしむように、遠くの方を見た。彼女が何を見ているのか、彼にはわからない。彼女をこちらの世界に引き戻したくて、少し声の音量をあげた。
「そんな、大それた者ではありませんよ。」
彼がそう言うと彼女は「国たるべきもの、が何を仰いますか。」と言ってくすくすと笑った。
「それにしても、まさか本当に祖国様が来てくださるなんて、思いもよりませんでした」
「あなたがお呼びになったんでしょう?」
「あら、そうでしたわ。いけませんね、年寄りは本当に物忘れが激しいわ。」
今朝もあの子にご飯をあげるのをわすれていて怒られたんですよ、と彼女はいつの間にそこにいたのかすぐそばで陽向ぼっこをしている白い子犬を見ながら目尻を少し下げた。
「あなたは本当に年を取らないのね。私がまだ娘だった頃に会って以来だけど、お姿はお美しいまま」
「さんこそ、まだまだ心はお若いのでしょう?」
「心だけ、若くってももうダメですよ。体が思うように動かないの」
「……」
老婆の顔に刻まれた皺が寂しさと、懐かしさと、無念さを語っていた。彼女より随分と永く生きている彼は『老いる』ということを知らない。だが、知らないなりに、長年の経験でそれは恐ろしくて、悲しくて、切ないものだ、と感じていた。
「ねぇ、菊さん、」
ゆっくりと、彼女は微笑んだ。彼をあの時と同じ様に呼びながら。少し首を傾げた彼女の向こう側に長い髪をおさげにして、鮮やかな色の着物を着た幼い少女が見え、彼は思わず息をのんだ。条件反射で発した「はい、」という返事は、かすれてうまく言葉にならなかった。
「あなたをここに呼んだのは、他でもない、あなたにしかできないお願い事があるからなの。」
老婆が言う。彼女の向こう側にいた少女はすでに消え去り、彼の目には昔からほとんど変わらない彼女の家の縁側と、季節はずれの椿が咲く手入れされた庭だけだった。
「私にできることなら、なんなりと」と彼が返事をすると彼女はまた微笑む。だがしかし、再びあの少女が彼の目に映ることはなかった。
「あの子を、あの子犬を、もらってやってくださらないかしら?」
彼女が示すのは先ほどから庭に寝そべっている白い子犬。彼が目をやると気持ちよさそうに伸びをした。
「私はもう、若くはないわ。私が死んで、この子にご飯をあげる人が居なくなったら…この子まで一緒に逝ってしまうわ。」
その言葉は、彼ではなく、ほかの誰かに向かって言っているように耳に響いた。
彼は、日本は目を閉じた。彼女を想い、過去を想い、未来を想った。そして、目を開いたときはもう決心は決まっていた。
「…はい、よろこんで。お引き受けします。」
彼が真剣な顔で言うと彼女は「ありがとう」と優しく微笑んだ。
「…その子犬の、お名前は?」
日本が聞くと、彼女は困ったように眉を下げた。
「それがねぇ、まだついていないんです。つい先日生まれたばかりで、」
「…では、何とお呼びしましょうか」
「そうねぇ、祖国様がつけてくださらないかしら」
「私が?」
えぇ、と彼女は頷く。平凡な人生を送って、平凡に死ぬ、私みたいな名前を、つけてください、と。
「…素敵な名前をつけさせていただきますね」
「よろしくお願いしますね」
庭の椿の花がぽとりと子犬の腹に落ちた。
